おやすみプンプン」13巻、「僕」と愛子ちゃんの逃避行のシーン。ケータイSHOP DOMOONで流される田中光子さん(41)の遺体発見のニュース。しかしこんなプレハブみたいなケータイショップが実在するものなのかね!?機体だけ売ってる?電波がつながるかも怪しそうなとこだけど…

物語の構造としてはやっぱりプンプンが主人公で、愛子ちゃんとまったく関わりのない中学後半と高校時代、バイト時代を経て、愛子ちゃんと再会し、愛子ちゃんを超える精神力の持ち主となって愛子ちゃんに悲嘆させるというオチ。

 

何しろプンプンはひねくれた精神を正常なものに戻そうとそれはそれは苦心していたのだから‼

「…小野寺くん。君が真面目な人ってことはよくわかった。けど、一人でいじけてたって仕方なくない?君が何にこだわってるのか知らないし、ひとりきりなら他人を傷つけないってのも確かにわかるけど。一人で生きていけるほど世の中単純じゃないし、第一君はそんなに強くない。…ちがう?」

共闘の作法を僕らは知らぬのだ‼多少はこちらから失礼なことを申しても構わないだろうという精神で生き始めた所存ですが、出会う人、出会う人、皆俺っちとは積極的にかかわろうとはしてくれない。皆僕が期待してるよりずっと軟弱なのだ‼無神経に話しかけ続けることはできない、なぜなら俺は革命の話をしたいわけではなく、いわば日常の平平凡凡な会話を交わせるようになりたいのだが、果たしてその無味乾燥な会話を展開し続けるだけの無意味耐性は僕にはない‼どーしようもなくつまらなく感じて終いには何も言葉が浮かばなくなる。俺の世界に対する関心が閉じていくのが分かる…‼‼漫画や文学上で行われているほどドラマチックな悲劇は僕らには訪れないのだ‼なぜならまず世界の難題に立ち向かうパッションがなければ困難などふりかかってすらくれないのだから。世界の難題に立ち向かうためのパッションはまず身の周りの人々と心を通わし悩みの種をきかせてもらうことから始まる、という円環構造なので生まれながらにそこに入り込めなかった人間はどうあがいてもなかなかその流れに入れてもらえない。情熱が0の状態から情熱が自然に発電されるサイクルにトリッキーなやり方で入る手立てを探すしかない。

「…僕はやらなきゃいけないことがあるんで。」

「やんなきゃいけないこと?」

「…昔、好きだった女の子と決着をつけなきゃならんのです。」

「…決着?…告白でもすんの?」

「そういう訳じゃないですけど………でも、とにかくもう一度会わなきゃいけない気がして、今日みたいに街を毎日毎日探し回っているんですね、僕ァ。」

こうもこっぱずかしいことを白状できちゃう時点で僕より一歩進んだ人間ですよ。だってこの瞬間理性はいったん放棄したでしょ?更生を受けるチャンスなわけです。

「んーー…単に諦めがつかないってだけ?そんな効率の悪いこと、いつまでも続ける訳にはいかないっしょ。」

「…二年後、今のアパートの契約期間が終わるまでは一応。」

「それまでに見つからなかったら?」

「…ふぅん。だんまりですか…

…その女の子ってさぁ、小野寺くんの同級生とかなんでしょ?当時の名簿見るなり他の同級生の巡るなりで、いくらでも連絡ぐらいつくはずだけど?

…君さ、本当は内心その女の子に会いたくないんじゃない?君はその子に運命的な再会を期待してるんだろうけど、そんなもんになんの意味があるの?あたしにはただ単に、結論を先送りにする言い逃れにしか思えないんだけど。あたしの予想だと君の言う二年後はもちろん、十年後も君は同じように言い訳を探してると思うな。一見 苦悩してるように見せて、実はなんにも考えてないし行動もできない、不毛な人生を送るんでしょうよ。

…いや別に構わないんだけどね、沢山いるもん、そういう絶望ごっこで満たされてる人。…でも君のその絶望って無駄だと思うよ。…なんでって、君は孤独を望んでいて、その絶望を誰とも共有できない訳で、

…いいかな小野寺くん。例えば あたしと再会したことも運命のひとつだと思うんだけど、この出来事を単なる偶然ととるか、運命と考えるかは、君の意思次第なんだな。

…どうする?あたしがその女の子探し出してあげようか?君の言う決着ってものがどんなもんなのか見てみたいわ。

そんな些細な思い出なんて片付けちゃって、新しい明日のために賢く頭使っておもしろおかしく暮らしたら?」

「…やめてください。」

「…ほら。その女の子の名前教えてよ。あたしが三日で連れてきてあげる。」

「…や、やめてください‼」

「だったら今すぐ死ね‼」

はんなり半泣きですわぁ。。。

日常に潜む資本主義の精神

吉野家以前経営危機を経験。

コロナ禍においては収益性担保のため、「構造変化」と名付けてコストコトロールと不採算店舗の閉鎖でもって対応したらしい。吉野家で中国だったりミャンマーだったりタイだったりの御国の方々が働いてるのよく見るけど、そーゆー人らみんな切っちゃったの?リストラって”会社”とかいう概念取っ払ったらどういう人間関係になるの?ペイが発生すればそれはトモダチではない?

薄利多売低賃金が基本体制の企業連中はこのコロナ禍に行った取り組みを総括させると皆口をそろえて、コスト効率の改善と唱える。だからコロナの霧が晴れれば、以前よりも収益が上がるはずだと、今まで見せていた隙を完璧に無くしてやったぞと意気込んでいるわけだ。二の矢は決まって”新たな顧客層とニーズの発掘”。経済などまだ何も学んでいない状態で率直な感想を言わせてもらうと、労働者のことも新規・既存ひっくるめて顧客のことも、まるで信用してないから、大衆の抑えきれぬ怠惰な欲望に目をつけて利益をかすめとろうって戦法を取る羽目になってるんじゃないのかとも思う。「大量生産・大量売買の企業型でやってかないと生きていられない、社会の仕組みがそうなってる」と言われようが、知ったことではない。こちらは”覚悟”の話をしているのだから。

仕事ってのは俺の食い扶持をつなぐためにやっていいものなのか??議論の余地なく財が底を尽きればしのごの言わずに舞い込んできた職にありつくしかない。

吉野家、牛丼並盛を426円に値上げ。原油高や輸入牛肉急騰ーー

食糧自給率の低さが災いしましたね。牛肉の令和二年度の日本の自給率は36パーセントしかないらしいですね。原油の価格が値上げに関わってくるのはなんでなんでしょう。電気代とかそういうこと?

植物人間

日常的な範疇で、動物と植物の大きな違いは何かと聞かれたとき、自分の意志で動けるか動けないかということ以外に、雌雄の在り方が挙げられるだろう。学校で習ったままスルーしてしまいがちだが、僕たち動物からしてみたら、生殖器官を両方備えた個体など驚き桃の木山椒の木だろう‼そういう花々はたぶんほぼほぼおそらく大抵「自家不和合性」という性質を備えていて、それはつまり自分のおしべから出た花粉ではめしべにくっついても花粉管伸長ができないという性質のことなのだ。中には遺伝的に似ている花粉すら受け付けない植物もあって、とにかく全くの他人でないと受粉ができない、種ができない。この性質によって同じ種のなかでも遺伝的多様性が保たれているのである。

人間がこの性質を備えていたらどんなに居心地の良い世界になっただろうか、と想像する。男女の区別なく、”リソース”(異性)の奪いあいなく、性差別などなく、ホルモン量の違いもなく(労わりやすい)、同性愛の誹りを受けることなく、出会う人皆に対して柔和さがもたらされ、人間同士で無駄に争うこともなかったろう。性別によらず子種を宿すものは話し合いで決定し、皆身繕い、だれかれ構わず愛情を抱くことは第三者にとってなんら不快を生じさせない。全てが”自然”である。

 

…こういうくだらないことを言えるのが個人ブログのいいところですよね(⌒∇⌒)

こんな思い付きの突拍子もない話を他人にふるやつってのは当たり屋と変わんないですから笑

思い付きついでに言うと、ワンピースとかドラクエの世界とかって勇敢な少年一味の物語なわけだけど、ONE PIECEや魔王討伐などの最終目標があって、そこに至る過程なんかもログポースであったり村人の話であったりで明確に順序が決められてるから、それこそレールの敷かれた人生なのではと思えなくもない。

ぎこちない若者 (→結局自分語りになってしまいました)

学生時代勉強くらいしかすることがなかった人が、人と人の交わりの中ですこぶる”不自然”な振る舞いになるのは、その人のアイデンティティが「有用な知」を吸収し続けることに集約されているからである、という仮説を立てる。

最近ごく普通(=自然体)の大学生って普段どのくらいの時間、何を思って、どこにいるのか、心はどれくらい動かしているのか、他人のことにどれだけ思いを馳せているかがものすごく気になる。現代人である以上、ある程度は僕と同じようにインターネットの娯楽・情報を糧にして生きてるはずなのに、いわゆるネット界隈のべとべとしたコミュニケーションには全く汚されていない純粋な感情表現をまさに自然体でやってのける人の多いこと‼まるで悩ましいのは僕の頭と性事情だけみたい。

そこで逆転の発想をしてみた。同じ釜の飯を食ってれば同じ人間が出来上がるかと言われればそうではなく、理性にのみ管理者権限を与えてるやつはそのあまりの厳罰さに疲弊して暗く淀み、”神経反射”に委ねているやつはそのあまりのナチュラルさに気持ちが穏やかで軽々しい。

 

て書いてる間になんか借金が急遽一括払いでしか認められないとかうんぬんかんぬんで前途いと暗しなんだが。普通物語的には「おらの家は、借金さふくらんでるがら、大学には行げね」って言って職引き継ぐなり就職するなりするのが、子供としては真っ当なのではないかと思うんだけど、母親の金遣いの荒いせいっていう大義名分があるから、みーんなそのせいにして結局母親一人に金の情報さ握られて、それでこっちは母親が恐いからと把握しようともしないもんだから、事が大きくなって母親に泣きついて来られても同情はするけれども、「お前が自分の出費見直せばなぁ…」で思考停止して解決に二の足踏んじゃう。

勉強がようやっと面白くなってきたのは事実だから(そのおこりがいかに不純な動機からだとしても)、大学は出来れば辞めたくない。

物理学をベースに科学全般の興味を引き出し、これからいよいよ実験と構造式を意識した実学的な化学に本腰入れ始めるか…‼というところで、ここで学びを止めたら何もかも中途半端で終わってしまうような気がする。最終的な目標は、エネルギーと食糧という現代人の生活を支えてる根本の部分を科学的に理解した後は、生物多様性地球温暖化に配慮した生産・物流・消費システムをより一般的な意味での”科学”ベースで提案し、資本主義の精神によってひびの入った人間関係にテコ入れしたいという一連の流れをクリアして見せることで、ようやっと生涯心血注ぐだけの価値のあることを見つけ出せた気がしてたのに…。自分自身が編み出した理論的基盤など何もない状態で、ファストフード店の労働環境がどうだとか食糧・包装廃棄がどうだとか、栄養的にどうだとか、外国産の農薬染み染みのガバガバ検査の、過剰に土地を消耗させて作った肉がどうだとか、そういう”誰でも知ってるけど気負いすぎぬよう見てみぬふりをするのが当たり前な事柄”に、先人の前に倣って悪態つくだけでは、文句言いたがりの根なし野郎と思われかねない。

いやそれを恐れている時点で、「お前、それ権威の傘着るための学びじゃないのか?ー飾りじゃないのよ知性は」ってツッコミが入りそう。

本当に地球と全人類を思ってそれを成し遂げたいのならば、論理なんてかなぐり捨てて、チミはそのパッションだけを披露してみるだけでも目的に適っているはずだろう?事実グレタ・トゥンベリはそうしてる。彼女は革命家だ、扇動力がある。もちろんいい意味で。確かな理論基盤もなく人に話すのが恐いのは、突拍子もなく受け売りの言葉を並べ立てて、チミの言葉に説得力が宿らなかったらどうしよう…と考えているからだ。チミにとって重要なのは、問題の解決ではなく、むしろ解決に時間がかかること、良く言えば没頭できること、悪く言えばアイデンティティの置き所なんだね。それは日常生活によく現れてるだろう。心の余裕のある時には、安楽椅子に腰かけながら本やニュースで世の無責任さ、血迷い様に憤り、心の余裕のない時には、一時的な快楽を求めて暴飲暴食、娯楽コンテンツに走る。それはほんとうに臆病さだけに起因するものなんだろうか?制度的な用事が積み重なると気鬱になるのはほんとうに自分の生き抜く力を信じられなくなるからだけだろうか?エースを助けられなかったルフィが自暴自棄になったように、チミも”世界”という壁に阻まれて目の前が真っ暗になったとでもという気か?

いや、たしかに僕の資本主義に対する憤りは、ネットで伝播してきた、意地悪で、器の小さい、心の温かみの欠片もない思想に周りの人たちが感染して、それがあまりにも強力かつ毒性の強いものだったから、それに対抗するためにこの勉強を始めたはず。身に降りかかる災いを打ち払うため、そこだけは間違ってないはずだ。だがそれ以上は?生物多様性地球温暖化の直接的な原因になってる資本主義システムには、その無責任さに憤ったはず。逆に言えばそれだけで、自分の中に純粋な学問的な面白さっていうのは現状ないと思う。よく言えば先人の遺産(経済システムや科学技術)の圧倒的インパクトに酔いしれながらも、そのけつをふいてやるくらいの使命感でやってるはずだ。

やっぱり。

一人で他にすることも無いからやってるだけで、別に30年後の地球に対して危機感があるわけでもないし、かといって先人たちのように純粋な学問的魅力を感じてるわけでもない。”武器”として興味があるだけでその仕様書が分かりやすく書かれてなければすぐ投げうっちゃうような代物なんだろう、チミにとっては。お前の脳みそが”愛への渇望”でやられちまってるうちには実現なんて無理無理。

だけども勉強してるなかで素直に0から理論を汲み上げた先人に対する敬意みたいなものは感じていることだけは確かだ。信じてほしい。

目標を人に話せという部分に関しては、まず相手が資本主義に溶け切ってるやつだった場合、相手の価値観を覆すだけの弁舌を行うためには、やはり自分の中で論理が結びついていないとこちら側の”幻想”を相手の頭に挿げ替えるだけの力は備わらないでしょう。相手が資本主義システムに疑念を抱いてるようなやつだった場合は、たしかにびびって萎縮しちゃうよね。だから、僕が”武器”としてポスト資本主義を唱えてることを認めて、対人コミュニケーションは感情の発露であってゴマすりではないということを身体に覚え込ませて”愛”におもねるのを止め、とりあえずライフワークのような位置づけにしておけば妙に力まず、具体的な策についてラフに話し合える日が来るのではないでしょうか。どうやるんだそれ、って話だけどね。

このライフワークを”自然体”にするための最初の課題は、いかに身近なところに資本主義の精神が潜んでいるかを詳細に記述することからしか始まらないのではないだろうか。そのゲージが溜まるまでは身の回りのことでわちゃわちゃしたり、より愉快に生きるための方策なんかを捻出したりしてれば、いずれ毒抜きも終わるだろうと思う。

 

自分語り問答してたら紙幅がなくなって来ちゃった。

 

ずばり「有用な知」の収集ばかりに手慣れているとどうなるか。

頭で考えることが習慣化するのだ。

いわゆる理性のジャッジjudgeを頭に飼ってる人は見落としがちなのだが、実は大抵の人は逐一自分の言動を統一させようとはしていない。後から「言い過ぎたな、言葉選び間違えたな、あんなこと思ってもなかったのに」などと顧みることはあるが、面と向かい合えばすぐさま「理性」に主導権を握らせることを止め、”神経反射”に席を譲り渡す。だから会話の端々にボロが出るのであるし、また”光るもの”が出る。

私たちがスポーツや音楽に興じるのは、それが理性の支配から神経の支配に移り変わることで鬱憤を晴らしている面も多分にある。

理性偏重の人は、会話のボロが出るのを恐れるあまり言動を理性で縛るために、マリオネットのようにぎこちない。それ以上に致命的なのは、神経には絶対に主導権を明け渡さないためにパフォーマンスが著しく落ちてしまう点だ。

先程スポーツの例に例えたけれども、頭で「こうふりかぶって、この角度で、このくらいの勢いで…」と緻密にシミュレーションしてプレーするよりも、”いつものあの感じ”でプレーをした方が継続的にパフォーマンスの良い可能性は高い。変数がいくつもあり正確な未来が瞬時には導き出せないような時には、頭よりも感覚に身を委ねた方が勝率はあがるということは経験的に誰でも知っているはずだ。だが、ことコミュニケーションの話になると急に生得的な能力やこういう振りされたらこう返すとかどうのこうのという展開に議論が進む。

コミュ障と運動音痴は構造的に同じ問題である。頭でどういう練習をした方が良いか理解した後は、恥などかなぐり捨ててひたすら感覚に覚え込ます、これしか上達の道はない。ましてやコミュニケーションにおいては、本来その質などどうでもよく、憂さ晴らしに使う程度の心構えでいいはずなのだ。

コミュニケーション「嫌い」から常人になるためには、ボロなんか気にせずより露悪的に(他人から咎められるようなことでも)感情を表出し、その都度自分の器量の狭さを反省し、そうして最終的に咎められることなどなくなるまで、死に物狂いで、しゃべり倒し、自らの存在を主張するのだ。「箱入り自ら」だけにはならないようにしなければならない。あの集団だけでは好かれたい、あの集団だけには嫌われたくないなどの感情はたしかにあるが、その感情はそれを実現させるための”理性”を呼び覚ます。いやその感情を他人の眼から隠すために”理性”で偽装する。他人どもの目を抜いて最終的に勝者は俺だ、なんてやってると、蓋をしてる分まるで臭いものがあるかのように映ってしまう。そうではなくて、ご主人様にはしっぽフリフリさせながら、頬かむりしてみえるひとには間合いをとりながら、それでも自分の神経反射の清らかさ、卓抜さを信じて、そこに光明を見出すしかないのだ。

理想論だけどね。

「おやすみプンプン」草案

ホントは作者・浅野いにお(1980-)の少年時代、つまり1990年代の時代背景について調べ作品の中身と結び付けようと思ってたのだが、ちょっと今別件で忙しいので今週は草案のコピペで許してください。

 

・プンプン星を見つけた時、プンプンは大興奮で妄想を膨らます。

ノーベル賞もらったらー賞金でプンプン星に家を建てて、愛子ちゃんとイジュ―しよう‼ゲーム機も全機種そろえよう‼お母さんがダメって言ってた犬も飼おう‼お金が余ったらお父さん達の家も買ってあげよう。」

まず愛子との同棲、そしてそれを彩るゲーム、ペット、最後に親の順番が実に正確。最後だけ符号が‼でなくて。であるのも細かい。

そして十一巻でのこの対比

「なんて愚かな娘なのだろう‥」

 

・愛子はプンプン以外の人にはほとんど心を開かないし、幼少時代から「他の人なんてどーでもいい」と言っていることから、むしろ意識的に他人に関わるまいとしているのだろう。それはおそらく愛子にとって、自分が何もあげなくても好きと迫ってきてくれる唯一存在だけを渇望しているからだと思う。愛子にとってはそれが"神"なのだ。母親を説得するシーンで母親は「あんたは何をやってもできない」んだから私の下にずっといろ、「他人様に迷惑かけるくらいなら」と吐いたのを思い出してみれば、愛子は少なからずそれを内面化しているために自分から他人と関係を取り結ぶことは避けてきたのだろう。そこにプンプンが脈絡もなしに「一目ぼれで」いきなり「愛子ちゃんを守る」と言い放ったことに愛子は脳髄が痺れた。将来の夢を皆の前で発表することにおじけづいたプンプンに愛子が一言言いたくてプンプンに近づいて来た時点で多少なりともプンプンに意識は向かっていたのだろうとは思うが、それにしてもやはり最初はプンプンのストーカー始まりなのだ。ストーカーであったり夢を語ることに対して一言物申したくなったりと、小学生ならではの要素ばっかりなだけに"初恋の呪い"というのはそれほど恐ろしいし、また魅惑的でもある。おそらく中学生以降の愛子であれば自分の琴線に触れることがあってももはや口を出さなくなっていっただろうし、だからこそ成長するにつれて誰も構ってくれなくなり、ますます愛子は"重く"なっていくのだ。「プンプンはあたしのこと好き?」「じゃあ、あたしもプンプンが好き‼」この順番が愛子にとって一番重要なのである。ただ愛子の母親もおそらく口では愛子のためを想って束縛しているんだからねと幼少時代からそう諭していたはずである。がしかし変な宗教で基地外じみた母親に対する違和感は拭えない。だから愛子は口で愛を表現するだけではまだ安心できない。愛子が「プンプンは嘘つかないもんね?」と妙にこだわっているのも、愛情の賜物だと言い張る母親の根底から湧き出す暴力的な一面に懐疑的な気持ちから横溢してきた防衛機制としてごく自然な振る舞いなのである。だとしたら果たして物語後半のプンプンと愛子の微妙な関係性にも合点がいく。プンプンは”愛子のためを想って”愛子の母親を殴打した後絞殺するが、愛子にとって母親は憎しみの対象であると同時に寵愛を賜る対象でもあるがゆえに、人を殺してはいけないという倫理意識も当然相まって、はたしてプンプンのくれる愛は信用しても良いのだろうかと再び懐疑的になる。物語後半において愛子から見てプンプンは愛子の母親と同水準に並べられるのだ。そこでこのセリフである。「お母さんと同じこと言ってる。」物語後半プンプンの顔は真っ黒に塗りつぶされ鬼のような角も生やされていることからプンプンは憎しみに染まったというのは容易に読み取れるが、ここで愛子は独占的な愛は必ず憎しみとセットであることを悟ったのではないだろうか。これまでは唯一無条件で愛情をくれる母親に根本的ンそなわる憎悪から逃れるために、同じく無条件で愛情をくれるプンプンに固執していたが、独占的な愛、”初恋の呪い”に蝕まれたプンプンは憎しみにみちた愛情でもって応じた。もちろん最初に二人の間に憎しみをもたらしたのは愛子である。「嘘ついたら殺すから。」こう宣言して以後プンプンに呪いをかけたのは愛子の方だ。だが母親を介して憎しみとセットの愛のカタチしか学ばなかった愛子はこう表現するしかなかったものの、20年来呪いにかけられたプンプンほどには憎悪に対する恐怖感をコントロールできていなかった。「もっと本気だせよ、田中愛子。」プンプンと間に実現した愛もまた母親との愛と同じ様式であることを悟る。それは確かに愛子が一生涯求めてきたものである。だが同時に一生涯恨んできたものでもある。結局愛は苦しみのなかでしか与えらえないのだ、だとしたら愛が純粋な愛としてまだその片鱗を見せているうちに、苦しみが再び始まる前に生をやめてしまおう、そういう幸福感と絶望のなかで田中愛子は首を吊ったのである。おそらくね。

 この作品で定期的に出現する”神”とは自己存立基盤、ペロッと言ってしまえば、不安を和らげるための心のよりどころのことであることは間違いない。愛子の母親にとってはくちびるおばけ(もしかしたら愛子)、雄一おじさんであれば罪悪感、プンプンであれば自問、愛子であれば母親かつプンプンetc....通常であればもっとも健全な自己存立基盤といえば自問であることは、他登場人物の狂いようをみれば間違いないが、自問の持ち主プンプンもまた他登場人物と肩を並べる勢いで道を誤るのである。それは愛子の母親を殺すだけのことではない、いやあれはむしろ自己存立基盤のスペースを割と愛情に明け渡して以後の過ちである。蟹江に襲い掛かったり、プンプンママの訃報に全く動じなかったり、倫理をめぐる自問を延々発動させていたわりには結構クズなのである。というのもその自問発動に迫られたのが愛情不足始まりであるから。そもそもさっきから”初恋の呪い”と書いているが、プンプンの本当の初恋は一クラスメイトたるいじめっ子のミヨちゃんなのである。ここら辺リアルだなぁと感じ入ると同時に浅野さんの力量はここにあるんじゃないかとくらい思うのだが、とにかく、その後愛子ちゃんに熱が入るのはミヨちゃんが転校して傷心ぎみのプンプンがその穴を埋めるかのように一目ぼれしたからであって決して愛子の心暗い部分に惹かれたからではない。プンプンもまた愛子同様常に愛を渇望しているのだ。プンプンが最初に神様を呼び出すシーンは両親が酒がらみでいつもの大喧嘩を始めたところで1人部屋に戻った時である。最初の自問はこうだ。「お父さんとお母さんはもっと仲良くなれないのだろうか。」この問いからプンプンの倫理をめぐる問いへの一生涯かけての苦悩は展開している。両親は粗暴ながらも性生活に明け暮れておりかつ子供には虐待を重ねるような家庭で、果たして倫理的な子供が育つだろうか。暴力的な片親の下で幼少期を暮らした子供が倫理に目覚めるだろうか?自分対敵という構造に生まれながらに引きずり込まれた子どもは自分の身を守る術を知らない=構造の出方を知らない(生まれながらに仮想空間に閉じ込められた人間を仮定すればその人が目に見える世界がバーチャルなものであると気が付く可能性はどれほどあるだろうか)ために必ず相手のせん滅を願う。いかに相手を不快に陥れるかというゲームに参加させられた瞬間、互いに不快を与えずに済む方法を考えるリソースは大幅にけずられるのである。だから倫理は常に闘争に参加していない者、すなわち第三者にのみ優先的に開かれる。他人が刺されているのを見て、自分は刺されたという事実水準にはいないものの刺されたという共感的想像水準に身をおいたときにだけ、倫理の種は結実するのである。だとしたら倫理は暴力に満ちた世界の刷新を目指して始まる運動であるにもかかわらずその出生は暴力に頼っているという撞着に陥る。いかに先代が倫理インフラを社会に根付かせようとも闘争を俯瞰する機会を逸した次世代は必ず利己心に従って暴力を発揮するのだ。だから倫理と暴力は前と後、あるいは鶏と卵のように不可分であることは理解しつつも、恣意的な理由で核戦争を巻き起こすようなレベルにまで暴力を時間発展させないように暴力闘争の観客席に子供のうちから座らせておくことが必要なのではないだろうか。子供のうちから、というのは自己存立基盤にそれほどすがる必要がない、保護のもとに置かれている時代からということである。他人同士の闘いであろうと自己存立基盤の突き崩されそうになれば人は必ず頭の中でオーディエンスからバトラーに転向する。大人になってしまえば自己存立基盤はもろい自前のものしかなくなるため、殺す殺されるゲームから本人を解放してやるには新たな自己存立基盤を示して(あなたは僕が守りますから殺されることはありませんよ、とか)やりつつ、徐々に倫理をめぐる自問に移してやる必要があり、その分手間である。手間どころか重症なものだと一生涯かかるか死ぬまで治らない、だって人間だれしも皆違う世界に一歩踏み出すことさえ忌避する臆病者だから、僕も含めて。プンプンが両親の喧嘩を第三者として冷静に眺められたのも、他ならぬ両親は自分には手をださないという確信があったればこそのことである。自分が大丈夫だからこそ思いやりは発動するのである。これを逆手にとって、自分は大丈夫じゃないから倫理的に振る舞わなくてよいとかいう主張もそれなりの説得力をもって膾炙してますけど、あれはいきなり闘争に巻き込まれてその不快で相手に手をくだしたまたは将来手をくだしうるという罪悪感で、闘いのリングに上がり続けなければならないという物語自体を自己存立基盤におきかえ他人同士の闘争への悲しみから目を逸らしたいがためにそういう発言が生まれるのだ。ここから逆に言ってしまえば、赤の他人同士の闘争であっても長時間目の当たりにすれば倫理に目覚めない自分は自分で許せなくなるということだろう。だからここまでをまとめれば、倫理をめぐる自問の発動条件は①暴力闘争の俯瞰②それも長期間にわたって連続的に俯瞰③自己存立基盤あるいは保護があること、以上になる。

閑話休題

で、ここまでが脱線で、ここからが本題、すなわち倫理をめぐる自問はなぜなお社会人、隣人として不健全にとどまるのか、である。ひとつはさっき触れたように暴力の根絶を願う自問はその出自からして暴力を求めているからである。これは僕自身非常に身に覚えがある。大学入学後コロナウイルスの感染拡大の影響でキャンパスに通うことのなかった僕は、いわば暴力の跋扈する世界から急に解放されて、なんというか拍子抜けした。いやこの表現はあまり正しくない。あまり使いたくない表現だが、簡単にいってしまえば鬱になった。暴力根絶の物語を失った”倫理的な”人間の末路とは?自罰的な問答を延々繰り返し、そして自責の傷の癒しを求めて愛に嘆くのだ。

 

・プン山プンプンパパは野球観戦好きの中年。

プンプンの最初の夢は実はプロ野球選手。その理由は、「まだ野球をしたことはありませんが、野球中継を見ているお父さんはとても気分がいいから」子供の口で言わせるのがまたニヒルな感じがして良い。基本的に幼少時代のプンプンはお父さんに歯向かうということは全くなく、むしろ好いている、ように見える。仮説としてはプンプンの眼から見た家族関係図は、プンプンパパをなにかと怒らせ自分にもなにかと小言を言ううるさいプンプンママといったところだろうか。なにぶんプン山家三人暮らし時代の描写が少なすぎて確かなことは言えないのだが、後の巻で自分とプンパパの嫌なところを混ぜて煮詰めたようなプンプンが嫌いだとこぼしていたように、プンプンママはプンプンへの愛情と同じくらいの嫌悪感をどう処理してよいか分からず、割とぞんざいに扱っていたのではないだろうか。対してプンプンパパはプンプンに対しては割と甘い。愛情をナチュラルに伝えてくれる。

 

「おやすみプンプン」一巻①

おやすみプンプン」のメインヒロインは田中愛子ちゃんなのだが、実はプンプンの初恋の相手は愛子ちゃんではなく、小5の時のクラスのアイドルだったミヨちゃんなのだ。これからどういう物語が展開するのかまだ分からない最初の一めくりで出された情報なので、読み返すまですっかり忘れていた。ミヨちゃんは、いじめっ子として幅を利かせていたり顔面描写で酷い扱いを受けていたりするのだが特段重要な人物ではなくて、ホントに最初の冒頭二ページしか出てこない。が、ミヨちゃんの立ち位置は要するに記号であり、プンプンの性根を表すのに上手く機能していることには注目しておきたい。

プンプンがミヨちゃんのことを好きになったのは、吉川さん(モブ子)に砂利を食わせようとして虐めてるときに偶然プンプンが通りかかって、ミヨちゃんに「…二人だけの秘密だからね‼」と言われたのをプンプンが勝手に含みある言葉と受け取ったからであり、「後にも先にも喋ったのはこれきり」だった。そしてミヨちゃんの転校後、傷心気味のプンプンはその穴を埋めるかのようにすぐさま転入してきた愛子に一目ぼれしてしまうのだ。それは決して愛子の心暗い部分に惹かれたからではない。プンプンの軽佻浮薄さと言ったら‼

普通一回喋りかけられただけで人を好きになるだろうか?(しかも人に砂利食わせてるやつを…)一目見ただけで人を好きになるだろうか?プンプンの両親が不仲であったり母親に嫌われてると思いこんでることを鑑みると、やはりこれ特徴的な愛着障害でしょう。

愛着障害(あいちゃくしょうがい)は、「甘える」や「誰かを信頼する」などの経験値が極端に低いため、自分に向けられる愛情や好意に対しての応答が、怒りや無関心となってしまう状態[1]

  1. 生まれて2年目までに形成される通常の母子間の愛着形成;
  2. 通常の愛着が2-3年以内に形成されない場合には、愛着は遅れて形成される

欧米での先行研究により、子どもの基本的な情緒的欲求や身体的欲求の持続的無視や養育者が繰り返し変わる事などが挙げられている。また、研究者の友田(2020)[1]は、養育者との間の愛着形成を阻害する要因として、

  1. 暴言虐待による「聴覚野の肥大」
  2. 性的虐待や両親のDV目撃による「視覚野の萎縮」
  3. 厳格な体罰による「前頭前野の萎縮」

を挙げている。

Wikipediaでちゃんと調べたら愛着障害ってもっと重度で日常生活も満足に送れないほど支障をきたしている場合にしか適用しないらしい…。でもまぁ便利な用語なので勝手に敷衍して使わせてもらう。ここで言う愛着障害というのは、冷静な向き合い方のできていないままに一時的な快をもたらしうるという理由だけで相手につかず離れずで擦り寄る様という意味だ。

かいつまんで言ってしまえば、愛に飢えている、だれでもいいから愛をくだされという状態である。ただしそれは非常に即効的かつ一時的な快を欲求しての振る舞いなので、顔面が可愛いとか自分を気にかけてくれるとか褒めてくれるとか欲情的な身体つきだとかとにかく刹那的な快楽衝動によってのみ突き動かされるものだ。平均的な現代人なら誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。普通の人であればその欲求に従って相手に働きかければ最終的なゴールとまではいかなくてもそれなりの幸福感に満たされたやりとりくらいには発展させられるのだろうが、いわゆる愛着障害を抱える人がそれとは異なる点は、愛の応答に不得手、愛に臆病になっている(おそらくそれは愛情的に癒着した親であったり身の回りの大人であったりに煙たがられたあるいは懲罰的に扱われたというような歪な原体験が原因にあるのではないかとにらんでいるが)ために自分から相手に働きかけるということは絶対にしないということ。

といっても最低限の文化的かつ健康的な生活を送れているという点ではWikipediaの定義通りの愛着障害ほどの悲惨さを背負っているわけでないからプンプンみたいなストーカー行為はざらにします。そしてそれがよりいっそうキモイところである(プンプンがあの白アリクイみたいなデフォルメで描かれてなかったらよりいっそうグロテスクかつリアルな仕上がりに出来たはずで若干不満がないわけでもないが、しかし表情をグロテスクに仕上げようと作者が力みすぎてそれはそれでイタい感じになってたかもしれないことを考えると評価したい気持ちもある)。凡人に紛れ込もうと必死になりながらもグロテスクな手段でしか欲望を表せないその微妙さ加減がよりいっそう人々の鼻につくことは賛同していただけるだろうこと請け合いだ。人々は真面目なら真面目、熱い男なら熱い男、残虐非道な奴なら残虐非道な奴、異常な奴なら異常な奴として認識する方が理解しやすいのであり、また自分自身もどれかに振り切っちゃった方が楽なのだ。そういう迷える子羊をプンプンとして主人公に据えたということは、日常生活を五体満足で遅れているけど苦悩の渦中…という人の浄化にこそ「おやすみプンプン」の薬理作用はあるというわけだ。

 

…そして田中愛子が五年二組に加わるわけだが、このヒロイン普通に可愛いのである。大衆芸術と言われるジャンルで勝負するには致し方ないのか?とも思うが、プンプンのような陰気な奴が陰気たるゆえんはその欲望の発散の仕方が歪なところにあるわけでそれがお顔の可愛い愛子ちゃんによって満たされちゃったらそれこそただの陰気なやつの欲望の発散の仕方のひとつである夢物語を見せられてるだけということになるのではないのか、それじゃこの物語に確かな道しるべを求めることなどできないではないか、と不満が噴出してくるのではあるが、おそらく田中愛子が不細工に描かれていたとしたら僕ら読者は原作ほどこの物語に憑りつかれることはなかっただろうし、よりリアルに近い性愛も描き出せなかっただろうし、浅野いにおの丁寧な描写から可愛いという一点だけでプンプンが狂わされているわけではないというのは分かるのだけれど、それにしたって………プンプンもジャニーズ顔のイケメンらしいし…美男美女でイチャコラして密な関係築いて、、、え、なんかシュールレアリスムの技法かギャグか知らないけど、モブメンをやたらぶっさいくに描いてるのも腹立ってきた。まぁ作品は作者の思いのたけを結晶化する場ですから読者の欲望なんて介入の余地ないわけですから別に良いですけど。実際、ラブコメと文学のこの絶妙な混ざり具合がマンガというプラットフォームの下で一つの成果をあげていることは確かだし、伊坂幸太郎がこの作品を「前衛でありつつ王道を走り抜ける」と評しているのもこのところなんじゃないだろうか。今後も折に触れて指摘していきたい。

 ちなみに先程触れたシュールレアリスムはここでは俗語的な意味で、物語の各所に異物あるいはナンセンス、不条理なものを紛れ込ませることくらいに捉えてほしい。例えば一巻におけるシュールポイントを拾ってみると

・プンプンとその家族は全て落書きのヒヨコのような見た目

・口が大きく斜視気味のミヨちゃん

・死んだ目をした同級生(女)

・下敷きと髪の毛で静電気実験をしてる同級生(男)

・舌をぺろぺろしながら走る腕ポーズをしてみたり、首を左右に揺らしてみたりと爽やかな笑顔を張り付けたまま不審な挙動を繰り返す五年二組の担任

・身の丈にあった夢を持てとか宿題してこなかったら死あるのみとか先生らしからぬ発言を繰り返す五年二組担任

・コスモさん健康センターという宗教団体のメンバーらが笑顔のまま指を結んで前で両手をクロスしセイッ、セイッと唱える描写(実は伏線だったと後で判明)

・ぷんぷんは「神様神様チンクルホイ」と唱えると神様が召喚できるのだが、見た目は普通の中年のおっさん、必ず二次元的に平面で描かれる

・アンゴルモア

wikipediaによればノストラダムスの大予言の中に登場する恐るべき大王とのこと。

この語は、『予言集』(百詩篇)の第10巻72番に登場する。その詩の直訳はひとまず以下のようになる(翻訳上のより詳しい問題は第10巻72番を参照)。

1999年7か月、
空から恐怖の大王が来るだろう、
アンゴルモアの大王を蘇らせ、
マルスの前後に首尾よく支配するために。

 ・プンプンが作文の宿題をやってきてないと早とちりした五年二組の担任が涙を垂らしながら発狂。机に頭を打ち付けたり黒板にチョークで意味の無い線を描いたり頭を抱えて床に背をつけてじたばたしたり、とにかくやばいことをしながら説教したり平等についてそれらしいことを考えてみたりやはり発狂したりした。実はプンプンが作文の宿題をちゃんとやってきていることを晴見(プンプンの友達)が告げると、「なーんちゃって‼」と舌をぺろぺろしながら走る腕のポーズをしておどけてみせる様子が教室全体を映す引きのアングルで収められていた。

・教頭先生と校長先生が叫んだり変顔したりしながらかくれんぼに興じる様子

・プンプン椅子の上に立ったり教卓の上に立ったりしている

動線上に効果音(ひたひた、シュイ―ンetc..)が配置されて描写されている

・プンプンの頭の中でビックバンから地球創世、大地形成、動植物の発生、宗教文化を表す土偶(?)、壁画、アインシュタイン、絞殺による大量殺処分、宇宙到達、町の鳥瞰(その後愛子に初めて告白することから、愛の普遍性、スケールのでかさ、運命論などを印象付けたかったのではないかと推論も可能か)

ヘッドロックかますぞと冗談ぶく音楽の先生、ピアノ演奏中の必死の形相

・ラーメン店主が死にかける超ショートサイドストーリー

・雄一おじさん(プンプンの母親の弟)が物思いにふけりながら独り言つ最中、なぞのやつれた女が共感してくれる

・プンプンのアイスの棒にあたりではなく”あたた”の文字

・体育で同級生に紛れてランニングする神様

・卑猥なひっかけクイズを出してくる保健室の先生

・「ウイッ‼ウイッ‼」しか喋らない弁護士の湯上くん

・「わからないったらわからない」ダンス

・愛子を追いかけるシーンで腹ぼりぼり掻いてるおっさん

・無罪を主張して裁判がどうのこうの言ってるアフロ外国人、なぜか愛子ちゃんとプンプンが鹿児島に行く約束を交わすところまでついてくる

・清水にだけ見える落書きのような神様たち(うんこ神etc...)

・寝てるじじいのはげ頭にアブラゼミがとまる

シュールレアリスム的絵画的描写も頻出していたが、言葉じゃ充分に伝えられないため省いた。やはりプンプンのもやもやで混沌とした心情を表すのに使われることが多かったように思う。

 

今週はここで終わりにしようかな。

あと一つ言いたいことは、さっきのような他人が拵えた要素や具体例の羅列を逐一眺めてふむふむと唸ることほどばからしいことはないと思う。基本的に羅列というのは読者のためなどでは全くなく、むしろ作品を繰り返しスキャンして要素を一つ一つ丹念に拾い上げる営みこそが当人の頭の中の整理と分析への足掛かりの確立につながるのであって、それを面倒くさがってまとめてくださってアザース!とか言いながら労力削減を図ろうとすればあっという間に頭から抜けていくでしょう。なぜならそれはその人にとってまだ疑い深いものに留まるから。地道に時間をかけて丁寧に自分の思考規範に照らしながら積み上げていくことで初めて、その人にとっての”確からしさの核”が形成されるのだ。これはすべてのことに言えると思っていて、こういう作業を億劫がって他人に情報の適否の判断を丸投げしてるようなやつらが陰謀論とか扇動とかにひっかかってるんだと思う。陰謀論wとしか嘲笑することの出来ないやつも、そうやって非難すれば立場上理性的に振る舞えると浅知恵を働かして他人がやってるのを猿真似したに過ぎず、自分にとって疑いようのない事実を積み上げていく作業を放棄しているという点では、陰謀論者とさして変わらないとも思う。

 

蛇足ですが。

「おやすみぷんぷん」の連載記事書きます。

毎週火曜日正午投稿。筋立てて書くつもりはありません。切り口が見えたところから順々に行ったり来たりしながら書きます。

世界を居心地のよいものにするために、大人になるために、自分の生き方にケリをつけるためにしまっておいた欲望を呼び戻されて再び自問と執着と身もだえの渦に放り込まれた、とだけ書いて初回の挨拶とさせて頂きます。当然痛々しいものになっていきますが、プンプンよりいっそうプンプンになるつもりで書きます。