嫌よ嫌よも好きのうち

突然ですが、わたくし昨夜ワールドカップの大盛り上がりの中、失恋いたしました。

まさか”失恋”なんて言葉を使う日がくるとは思ってませんでした。そもそも色恋沙汰すらあまり主題に挙げてこなかったので。

失恋した今の実感を率直に言うと、「不安」ですかなぁ。

失恋したら涙が枯れ果てるまで泣き続けるんじゃないだろうかと思っていたのだが、多少動揺しただけで、いつもの生活リズムから大きく踏み外したり、誰とも喋る意欲が無くなったりということは一切なかった。むしろ快活におしゃべり出来てるまである。これは好意的に捉えれば、僕は他人に依存することのない「強い」人間だったのだと考えられるかもしれないが、穿って見れば、これはたぶん「まだ失恋したことを受け入れ切れていない」という状況なんだと思う。まさかここまで自分が自分に都合の良い解釈しかしようとしない偏狭な人間だとは思ってなかった。好きな人に、僕とは別の好きな人が居るということが分かってもなお、僕はまだいかにしてその好きな人に会えるかばかりに考えを巡らせているのだ。女友達くらいにはなってくれるかもしれない。女友達の作り方の相談に乗ってくれるかもしれない。お出かけくらいなら一緒に行ける仲になるかもしれない。いっそのことその好きな人の恋愛相談に乗っちゃって、高みの見物、野次馬根性を装い、最終的に仲を深めるきっかけにしようとさえしています。僕の脳みそは。

安易な絶望はしたくない、安い超克はしたくないと意地はってるからでしょうか。

 

日を改めまして、今度は分かりやすく絶望した。Aさん(僕の好きな人)に好きな人が居ることが分かってから後に、Aさんと接触する機会があったのだが、そこでものすごく冷たくあしらわれた。あんなに平静ぶって分析してても動揺を隠せずに、授業を聞いていても友達とどうおしゃべりするかばかりが思考をジャックし、夜はとにかく襲い掛かる不安から一瞬でも逃れるために暴食してみたりYoutube見てみたりゲームしてみたりとかなり必死。そうしてスマホの音を子守歌に自分を慰めながらでないと、眠りにつくことさえ出来ないのだ…

人間関係が僕の人生に悪影響を及ぼしているのは明らかなので、今回は誰かを好きになったり嫌いになったりするにはどういう条件が必要かということについて考えてみたい。

これは本当に個人的な事情なのかもしれないが、人を好きになるための条件は、まず相手から好意を向けられることだと思う。「個人的な」という留保をつけたのは、画面上でしか見たことがないタレント、俳優、アイドルなどに対して本気で恋をしている人が居る現実を知っているからだ。だが僕はこれには少し懐疑的で、僕が著名人の言動に画面越しに心を打たれたり、あるいはタレントの声や見た目に対して親しみを覚えたりする、あの安心感を恋愛感情だと錯覚しているにすぎないのではないかと思うのだ。僕も中高生時代人並みに(?)配信者や歌い手を追っかけまわした時期はあったが、それは恋愛感情では全くなかった。恋愛感情とは、あの人をどうにかして自分のものにしたいという感情のことだとするならば、僕は別に歌い手の色恋沙汰になど全く関心はなかったし、色男に手玉にされてようが嫉妬も何もしなかったと思う。ただ安心と不足した女性成分をコンテンツに求めていただけで、その人自身をどうにかしてやろうとは考えなかった。とはいえ、この「安心感」を恋愛感情に昇格させる方法は確かにある。

それは直に会いにいくこと。直に対面して、その人の体温、息遣い、言動を肌で感じ取り、こちらが話しかければ相手がそれに答えるというコミュニケーションの通路を開通させることである。

傍から見ればいわゆるオタクや追っかけは画面上に貼りついているだけで、何の根拠もなしに虚妄に入り浸っていると思われがちだが、実は配信やライブ、握手会での数少ないやり取りを丹念に拾い集めて恋愛感情を醸成しており、その点では市井の方々と何ら変わるところはないのである。

だからまず人を好きになる、というか人に執着するようになるには、まずもってこちらが送り付けたメッセージに対して相手が好意と共に返答するということが必要なわけだ。

 

ここまで恋愛感情についての定義を固めていって一つ気が付いたことがある。それは、恋愛感情を援用するだけでは、恋人以外の他人について健全な人間関係は構築できないということである。

 

相手の好意を受け取って初めてその人のことを好きになる主体が二人いた場合、どちらが先に相手に好意をプレゼントするかという問題がある。好きにさえなってしまえばそれ以降相手に送るメッセージは全て好意の伴ったものになるが、相手のことを好きになる前は、原理的には好意は伴わない。つまり、相手のことを好きになろうとしても、他ならぬ自分自身が相手に好意を送っていないために、相手も好意が沸き上がることなく、相手から送り返されるメッセージに好意が乗ることはない。そうすれば自分の中に好意が生まれるはずはなく…という循環構造に入るわけだ。「恋愛感情」を定義するだけでは、人は誰も愛することは出来ない。

そこでこの循環構造を打ち破るものが必要になってくる。それは先に述べた、「安心感」を、「好意」に読み違えるという振る舞いである。

「安心感」は、人を楽しませる力であったり生きる基盤や指針を与えてくれたり経済的に良い思いをさせてくれたり知的・性的に興奮させてくれたり容姿であったり気遣いであったり、といった人それぞれの個性に惹かれて醸成される。それは画面上であろうと対面であろうと関係がない必要なのは一方的な「関心」なのである。

「安心感」があると人はそちらの方へ惹きつけられ相手とコミュニケーションを図ろうとするのが自然だが(人は本能的に「交換」したい生き物なのである)、その時話しかけられた側は、自分に対して好意があるから話しかけられているのだと錯覚し、二人を惹きつけた「安心感」という実の裏に、「恋愛感情」という虚を認める動作を行う。それが本能によるものなのか、あるいは彼氏彼女で一人前という社会的要請によるものなのか、正直よく分からない。とにかく一度「恋愛感情」という虚の実在を認めてしまえば、自分の中に「恋愛感情」が実として現れ、相手はそれを感じ取って「恋愛感情」が実に成ってしまう。一度循環が始まれば指数関数的に好意は増大していくことになる。

 

この世に私とあなたの二人しか居ないのであればこれまでの話ですべて説明がつく。しかし第三者が現れた場合、事態はより複雑になる。

日を空けすぎたのでここまで