怒髪冠を衝く

最近、活力の源は怒ることにあるのではないかとよく思う。

僕は久しく誰かに対して怒りをぶつけたことがないが、それは別に僕が菩薩のように温厚だからというわけでは決してなく、単に無気力で怠惰な人間だから怒ることさえめんどくさがってやらないだけだ。人に対して怒るには膨大な労力がかかる。もちろん、それは怒声を発するのに相当のエネルギーを必要とするというのもあるが、それ以上に怒りをぶつけた後の、関係修復作業や修復に失敗した際の今後の身の振り方であったりが煩わしいのだ。あるいは怒りをぶつけた先の相手の心の傷のことや逆に反撃されて己の瑕疵をつまびらかにされることを恐れて、という面も見過ごせない。怒るには、それ相応の労力をかける覚悟と人間の汚い部分を見てもなおお気楽に生きていけるだけの胆力とが必要なのだ。

中高生あたりからだろうか、僕が人に対して怒ることを止めたのは。大抵の問題に関して、僕は自分の正当性を信じられずに問題の大きさに恐れをなして、ただ押し黙るという選択をしてきたし、明らかに自分が正しいと分かっているときでさえ、人に対して厭味ったらしく文句を言う自分の姿を想像するだけで吐き気がし、また相手の気色の悪い性根にひいてしまって、怒る気なんて起きなかった。だが、もっと根本的な原因として、相手に言い返すのなら、相手が二の句を継げないほどに言い負かさないとだめだと気負いすぎたことがあるかもしれない。相手と喧嘩をしようと思うのなら、ただ単純に馬鹿だのあほだの暴言を吐くなり相手の容姿を責めるなりすればよかっただけなのである。それはすこぶる幼児的な喧嘩ではあるが、相手を完膚なきまでに叩きのめす良い言葉はないかと考えあぐね、結果思いつかずに押し黙り、果ては無言で後を去るなどするくらいなら、暴言だけでも吐き続けてるほうが、「交流」が成り立っているという意味でよっぽど生産的である。だが僕はそれに気が付かず、沈黙を貫いてきた。臆病さにとらわれた青春時代だったわけだ。でもこういう怒れない人って最近結構いるんじゃないかと思う。

さて、あれから幾年か経って成人もした今、人に対して怒りをぶつけられるようになりたいと思う。それは怒るというのがコミュニケーションの一環であるという面に併せて、もうひとつ怒ることの恩恵があると思うからだ。

怒るということは、何かに対してこだわりがあり、そのこだわりを他人に蹂躙されたから我慢ならずに相手に説得するなり反撃するなり色々するという、こういう一連の流れがある。怒るには「こだわり」がないといけない。また、相手に対してただ暴言を吐くだけなら相手に感情を伝えることは出来るが、納得はさせられない。相手に自分の主張を聞き入れてもらうには、いかに自分はその物事に対して情熱があり、洞察があるかを言葉にして伝える必要がある。要するに誰かに対して怒れる人というのは何かに対して愛情が深い人だということだ。たとえそれが歪んだ愛であろうとも、愛情は深ければ深いほどパワーになる。それが理に適っていれば新しい秩序を打ち立てる正の力となるし、歪んでいれば秩序を破壊する負の力となる。事の正否は置いておいて、怒るというのは生きる活力を与えてくれるのだ。

だから俺はもっと全面的に怒ろうと思う。

それは愛情を深めるということ、関心を持つということ、自分の感情を押しつぶさずにちゃんと耳を傾けること。

生きることと怒ることは表裏一体であるべきなのだ。