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私はお盆に久しぶりに実家に帰省することに決めた。母校であるT小学校に寄ってみた。子どものころに広く感じたグラウンドには大きなプレハブが新たに立っていたせいかひどく狭く感じた。「あなた誰?」急に話しかけられたので後ろを振り返ると女の子が目をまん丸とさせてこちらを見つめていた。

まずい、この学校の生徒か…怪しまれて通報でもされたらやばいな。

「ああ、僕はこの学校の出身なんだけど、近くを通りかかったら懐かしくなっちゃってね。ごめんね驚かせて。すぐ出るよ」そう言って立ち去ろうとすると、

「え、」

なぜ今の俺の生活が荒んでいるのかを書き残しておこう。

メタ的な意味で一番大きいのは、実現したい現実的な未来が描けていない事。それさえあれば、実現に必要な具体的なステップを逆算して割り出し、それを毎日こなしていくことにのみ熱中して、快活な生活を送れるはずだ。話が具体的でないのが、良い証拠。もうどうにもならないという絶望感ときっと何とかなるさという躁状態のスイッチングだけでその場を凌いで、分岐点に差し掛かる瞬間の直前まで目をつぶり続けて分析をしないもんだからいつまで経っても中学生みたいな精神性と度量のまま、穀を潰してる。

だからまず第一の処方箋は、自分で一から物語を作る練習をすることなのではないかと思う。ただ一つ問題なのは、目ばっかり肥えてるせいで、自分の手作りした作品に面白さを見出すことが出来ずに飽きちゃって、途中でうっちゃってしまいがちなことだ。いくら逃げちゃダメだと自分に言い聞かせて作品を書き上げたとしても、実際のところは興味を持っていないわけだから、そこからインスピレーションを得たり自分を奮い立たせたりといったような効果は望めず長続きしない。

俺の中で今確信めいていることは、自分の”作品”から活力を汲み出せるものこそ、真に意味のある活動足りえるということだけだ。

二つ目は金がないこと。

特に書きたいこともないのだが、書かねば死んでしまうので仕方なく書く。これは誇張ではない。書いて自分の意思を作り上げる練習をしておかないと、コミュニケーションに不調をきたし、社会的に抹殺されるのだ。人を安心させるにはまず自分自身が自らの闘志に燃えて自立している状態でなければならないらしい。そして人を安心させることのできない人間は、居ても邪魔になるだけだからはじかれる。露骨に村八分ということにはならないだろうが、少なくともあなたの欲しいものは何も手に入らない。あなたが望むものを手に入れたいのなら「玄人」にならなければならない。

具体的なことを語れない人は素人である。素人とは自分の他に興味関心を持つモノがない状態のことである。そのモノについて熱を込めて語ることを通じて、迂回的に自分がどういう人間であるかを知らしめることになるという形態が、どうやら人間社会では「正常」であるらしい。素人は社会的に弱い。残念だが自分の弱さに安住することはすなわち死を意味する。それは僕たちに「面白い」という感情がある限り仕方がない。弱い人はすることなすことすべてにおいてつまらないのだ。

 

俺は自分以外の物事に興味関心がない状態のことを鬱と呼ぼうと思う。

男子校の思い出

まだ知り合って日の浅い人とお話しする機会があると、決まって出身校の話になりがちである。特に僕の場合男子校という特異な環境だったからみんな興味持って聞いてくる。だから一度男子校での生活とは何だったのかについてまとめておいた方が良いだろうと思って、今日ここに書き連ねる。

僕の通っていたのは地方の私立進学校。従って、全国各地から集結した野郎どもがどでかい「寮」というハコに収監されていた。

中学時代は個室という概念がなく、高校生になってようやく刑務所並みの広さの独房を貰えた。パノプティコンほどには猟奇的な構造ではなかったが、中学時代は同じ階のすべての部屋は同じ一つの廊下に面しており、その間に舎監室が、両端には防犯カメラが設置されていた。高校時代には、中庭を囲むように部屋が軒を並べており、中学時代のように全室を一望できるわけではないと思いきや、中庭を囲う四隅は部屋ではなく大きなガラス窓、つまりそのガラス窓から中庭の方向に臨めば、対岸の部屋が見渡せるという構造なのだ。だから普通のプライバシー意識を持ってるやつなら基本的に中庭に面した自室の窓は常にカーテンで覆った状態にしてある。消灯後には廊下に面した窓と中庭に面した窓の両方から見られている可能性を考えながら、びくびくと漫画を読まねばならないのだ。

朝は7時20分に点呼、8時10分登校完了、16時半頃に学校が終わり、18時ごろに部活が終了。その後19時15分までに風呂と夕飯を済ませ、22時45分まで自習時間。そこから15分で就寝準備を済ませて23時完全消灯。どこで遊ぶねん!

生活の自由度はかなり低いし、周りに遊び方を教えてくれる大人もいない。皆それぞれ地元で仕入れてきた人生経験を基に、遊ぶ奴はどんどん出かけるし、勉強する奴はどんどん勉強するし、暇な奴はボールを追いかけたり友人とくっちゃべってたりするわけだ。

こんな環境で育った子供たちがまともな感性と品性を持っているわけもなく、今思い返してもかなり異形な面々がそろっていた。

まず一番記憶に新しいのは、Aくん。Aくんは学校の授業は一切聞かずに、東進と参考書でひたすらバリバリ独学を続けていた強者。模試の成績は大抵彼が上位をかっさらっていってた。だが彼にとって受験勉強はあくまで医学部進学のための道具でしかない。高校二・三年生頃になって思考力が大方完成されると、最低限の勉強だけして後は悠々自適な生活を送っていたように思う。中学生のころには図書館で大量の科学本を借りて読み漁っていたように記憶しているのだが、大学生になった今でも読んだりしているのだろうか?そしてまぁ勉強ができるやつにはありがちなのだが、彼はとても喧嘩っぱやかった。頭に血が上りやすいという性向もあっただろうが、それに加えて彼自身公言していたように喧嘩は人間の成長にとって良いことだと捉えているフシがあったのだ。感情を言語化し、瞬時に相手を言い負かすだけの語彙力、論理的思考力を鍛える練習になるとおそらくは考えていたのだろう。おおむね僕も賛成する。実際彼は言葉の通り、人の欠点をあげつらい、人のギャグには無邪気に笑い、喧嘩になれば一歩も引かずに真剣に口論していた。友達の顔面を殴り、授業中先生に「だるまさんがころんだ」を仕掛けるなどして何度も自宅謹慎に処され、禁止されている魚を捌き、ブスだの臭いだの罵っていた(こう書くと相当ヤバいなw)し、先生だろうが舎監だろうが反骨精神を忘れずにらみつけ、機械があれば口答えしていた。実際彼の弁論に勝てるものはそう多くなかった。口が上手いだけじゃなく噴火のごとき気迫も伴っているから厄介なのだ。彼の弁論に対抗できる見込みのあるやつも大抵は彼の覇気に押されて自ら身を引いていた。むしろ彼が一番やりにくそうだったのは、特に論理的思考が優れているわけではないが、スポーツやお喋りでどこか人を惹きつける力を持っている「権力者」かつ頭に血が上りやすくいタイプだ。

 

色々上げてきたが、日常を惰性で生きていないという点では彼らに尊敬の念すら抱いている。

嫌よ嫌よも好きのうち

突然ですが、わたくし昨夜ワールドカップの大盛り上がりの中、失恋いたしました。

まさか”失恋”なんて言葉を使う日がくるとは思ってませんでした。そもそも色恋沙汰すらあまり主題に挙げてこなかったので。

失恋した今の実感を率直に言うと、「不安」ですかなぁ。

失恋したら涙が枯れ果てるまで泣き続けるんじゃないだろうかと思っていたのだが、多少動揺しただけで、いつもの生活リズムから大きく踏み外したり、誰とも喋る意欲が無くなったりということは一切なかった。むしろ快活におしゃべり出来てるまである。これは好意的に捉えれば、僕は他人に依存することのない「強い」人間だったのだと考えられるかもしれないが、穿って見れば、これはたぶん「まだ失恋したことを受け入れ切れていない」という状況なんだと思う。まさかここまで自分が自分に都合の良い解釈しかしようとしない偏狭な人間だとは思ってなかった。好きな人に、僕とは別の好きな人が居るということが分かってもなお、僕はまだいかにしてその好きな人に会えるかばかりに考えを巡らせているのだ。女友達くらいにはなってくれるかもしれない。女友達の作り方の相談に乗ってくれるかもしれない。お出かけくらいなら一緒に行ける仲になるかもしれない。いっそのことその好きな人の恋愛相談に乗っちゃって、高みの見物、野次馬根性を装い、最終的に仲を深めるきっかけにしようとさえしています。僕の脳みそは。

安易な絶望はしたくない、安い超克はしたくないと意地はってるからでしょうか。

 

日を改めまして、今度は分かりやすく絶望した。Aさん(僕の好きな人)に好きな人が居ることが分かってから後に、Aさんと接触する機会があったのだが、そこでものすごく冷たくあしらわれた。あんなに平静ぶって分析してても動揺を隠せずに、授業を聞いていても友達とどうおしゃべりするかばかりが思考をジャックし、夜はとにかく襲い掛かる不安から一瞬でも逃れるために暴食してみたりYoutube見てみたりゲームしてみたりとかなり必死。そうしてスマホの音を子守歌に自分を慰めながらでないと、眠りにつくことさえ出来ないのだ…

人間関係が僕の人生に悪影響を及ぼしているのは明らかなので、今回は誰かを好きになったり嫌いになったりするにはどういう条件が必要かということについて考えてみたい。

これは本当に個人的な事情なのかもしれないが、人を好きになるための条件は、まず相手から好意を向けられることだと思う。「個人的な」という留保をつけたのは、画面上でしか見たことがないタレント、俳優、アイドルなどに対して本気で恋をしている人が居る現実を知っているからだ。だが僕はこれには少し懐疑的で、僕が著名人の言動に画面越しに心を打たれたり、あるいはタレントの声や見た目に対して親しみを覚えたりする、あの安心感を恋愛感情だと錯覚しているにすぎないのではないかと思うのだ。僕も中高生時代人並みに(?)配信者や歌い手を追っかけまわした時期はあったが、それは恋愛感情では全くなかった。恋愛感情とは、あの人をどうにかして自分のものにしたいという感情のことだとするならば、僕は別に歌い手の色恋沙汰になど全く関心はなかったし、色男に手玉にされてようが嫉妬も何もしなかったと思う。ただ安心と不足した女性成分をコンテンツに求めていただけで、その人自身をどうにかしてやろうとは考えなかった。とはいえ、この「安心感」を恋愛感情に昇格させる方法は確かにある。

それは直に会いにいくこと。直に対面して、その人の体温、息遣い、言動を肌で感じ取り、こちらが話しかければ相手がそれに答えるというコミュニケーションの通路を開通させることである。

傍から見ればいわゆるオタクや追っかけは画面上に貼りついているだけで、何の根拠もなしに虚妄に入り浸っていると思われがちだが、実は配信やライブ、握手会での数少ないやり取りを丹念に拾い集めて恋愛感情を醸成しており、その点では市井の方々と何ら変わるところはないのである。

だからまず人を好きになる、というか人に執着するようになるには、まずもってこちらが送り付けたメッセージに対して相手が好意と共に返答するということが必要なわけだ。

 

ここまで恋愛感情についての定義を固めていって一つ気が付いたことがある。それは、恋愛感情を援用するだけでは、恋人以外の他人について健全な人間関係は構築できないということである。

 

相手の好意を受け取って初めてその人のことを好きになる主体が二人いた場合、どちらが先に相手に好意をプレゼントするかという問題がある。好きにさえなってしまえばそれ以降相手に送るメッセージは全て好意の伴ったものになるが、相手のことを好きになる前は、原理的には好意は伴わない。つまり、相手のことを好きになろうとしても、他ならぬ自分自身が相手に好意を送っていないために、相手も好意が沸き上がることなく、相手から送り返されるメッセージに好意が乗ることはない。そうすれば自分の中に好意が生まれるはずはなく…という循環構造に入るわけだ。「恋愛感情」を定義するだけでは、人は誰も愛することは出来ない。

そこでこの循環構造を打ち破るものが必要になってくる。それは先に述べた、「安心感」を、「好意」に読み違えるという振る舞いである。

「安心感」は、人を楽しませる力であったり生きる基盤や指針を与えてくれたり経済的に良い思いをさせてくれたり知的・性的に興奮させてくれたり容姿であったり気遣いであったり、といった人それぞれの個性に惹かれて醸成される。それは画面上であろうと対面であろうと関係がない必要なのは一方的な「関心」なのである。

「安心感」があると人はそちらの方へ惹きつけられ相手とコミュニケーションを図ろうとするのが自然だが(人は本能的に「交換」したい生き物なのである)、その時話しかけられた側は、自分に対して好意があるから話しかけられているのだと錯覚し、二人を惹きつけた「安心感」という実の裏に、「恋愛感情」という虚を認める動作を行う。それが本能によるものなのか、あるいは彼氏彼女で一人前という社会的要請によるものなのか、正直よく分からない。とにかく一度「恋愛感情」という虚の実在を認めてしまえば、自分の中に「恋愛感情」が実として現れ、相手はそれを感じ取って「恋愛感情」が実に成ってしまう。一度循環が始まれば指数関数的に好意は増大していくことになる。

 

この世に私とあなたの二人しか居ないのであればこれまでの話ですべて説明がつく。しかし第三者が現れた場合、事態はより複雑になる。

日を空けすぎたのでここまで

怒髪冠を衝く

最近、活力の源は怒ることにあるのではないかとよく思う。

僕は久しく誰かに対して怒りをぶつけたことがないが、それは別に僕が菩薩のように温厚だからというわけでは決してなく、単に無気力で怠惰な人間だから怒ることさえめんどくさがってやらないだけだ。人に対して怒るには膨大な労力がかかる。もちろん、それは怒声を発するのに相当のエネルギーを必要とするというのもあるが、それ以上に怒りをぶつけた後の、関係修復作業や修復に失敗した際の今後の身の振り方であったりが煩わしいのだ。あるいは怒りをぶつけた先の相手の心の傷のことや逆に反撃されて己の瑕疵をつまびらかにされることを恐れて、という面も見過ごせない。怒るには、それ相応の労力をかける覚悟と人間の汚い部分を見てもなおお気楽に生きていけるだけの胆力とが必要なのだ。

中高生あたりからだろうか、僕が人に対して怒ることを止めたのは。大抵の問題に関して、僕は自分の正当性を信じられずに問題の大きさに恐れをなして、ただ押し黙るという選択をしてきたし、明らかに自分が正しいと分かっているときでさえ、人に対して厭味ったらしく文句を言う自分の姿を想像するだけで吐き気がし、また相手の気色の悪い性根にひいてしまって、怒る気なんて起きなかった。だが、もっと根本的な原因として、相手に言い返すのなら、相手が二の句を継げないほどに言い負かさないとだめだと気負いすぎたことがあるかもしれない。相手と喧嘩をしようと思うのなら、ただ単純に馬鹿だのあほだの暴言を吐くなり相手の容姿を責めるなりすればよかっただけなのである。それはすこぶる幼児的な喧嘩ではあるが、相手を完膚なきまでに叩きのめす良い言葉はないかと考えあぐね、結果思いつかずに押し黙り、果ては無言で後を去るなどするくらいなら、暴言だけでも吐き続けてるほうが、「交流」が成り立っているという意味でよっぽど生産的である。だが僕はそれに気が付かず、沈黙を貫いてきた。臆病さにとらわれた青春時代だったわけだ。でもこういう怒れない人って最近結構いるんじゃないかと思う。

さて、あれから幾年か経って成人もした今、人に対して怒りをぶつけられるようになりたいと思う。それは怒るというのがコミュニケーションの一環であるという面に併せて、もうひとつ怒ることの恩恵があると思うからだ。

怒るということは、何かに対してこだわりがあり、そのこだわりを他人に蹂躙されたから我慢ならずに相手に説得するなり反撃するなり色々するという、こういう一連の流れがある。怒るには「こだわり」がないといけない。また、相手に対してただ暴言を吐くだけなら相手に感情を伝えることは出来るが、納得はさせられない。相手に自分の主張を聞き入れてもらうには、いかに自分はその物事に対して情熱があり、洞察があるかを言葉にして伝える必要がある。要するに誰かに対して怒れる人というのは何かに対して愛情が深い人だということだ。たとえそれが歪んだ愛であろうとも、愛情は深ければ深いほどパワーになる。それが理に適っていれば新しい秩序を打ち立てる正の力となるし、歪んでいれば秩序を破壊する負の力となる。事の正否は置いておいて、怒るというのは生きる活力を与えてくれるのだ。

だから俺はもっと全面的に怒ろうと思う。

それは愛情を深めるということ、関心を持つということ、自分の感情を押しつぶさずにちゃんと耳を傾けること。

生きることと怒ることは表裏一体であるべきなのだ。