ぎこちない若者 (→結局自分語りになってしまいました)

学生時代勉強くらいしかすることがなかった人が、人と人の交わりの中ですこぶる”不自然”な振る舞いになるのは、その人のアイデンティティが「有用な知」を吸収し続けることに集約されているからである、という仮説を立てる。

最近ごく普通(=自然体)の大学生って普段どのくらいの時間、何を思って、どこにいるのか、心はどれくらい動かしているのか、他人のことにどれだけ思いを馳せているかがものすごく気になる。現代人である以上、ある程度は僕と同じようにインターネットの娯楽・情報を糧にして生きてるはずなのに、いわゆるネット界隈のべとべとしたコミュニケーションには全く汚されていない純粋な感情表現をまさに自然体でやってのける人の多いこと‼まるで悩ましいのは僕の頭と性事情だけみたい。

そこで逆転の発想をしてみた。同じ釜の飯を食ってれば同じ人間が出来上がるかと言われればそうではなく、理性にのみ管理者権限を与えてるやつはそのあまりの厳罰さに疲弊して暗く淀み、”神経反射”に委ねているやつはそのあまりのナチュラルさに気持ちが穏やかで軽々しい。

 

て書いてる間になんか借金が急遽一括払いでしか認められないとかうんぬんかんぬんで前途いと暗しなんだが。普通物語的には「おらの家は、借金さふくらんでるがら、大学には行げね」って言って職引き継ぐなり就職するなりするのが、子供としては真っ当なのではないかと思うんだけど、母親の金遣いの荒いせいっていう大義名分があるから、みーんなそのせいにして結局母親一人に金の情報さ握られて、それでこっちは母親が恐いからと把握しようともしないもんだから、事が大きくなって母親に泣きついて来られても同情はするけれども、「お前が自分の出費見直せばなぁ…」で思考停止して解決に二の足踏んじゃう。

勉強がようやっと面白くなってきたのは事実だから(そのおこりがいかに不純な動機からだとしても)、大学は出来れば辞めたくない。

物理学をベースに科学全般の興味を引き出し、これからいよいよ実験と構造式を意識した実学的な化学に本腰入れ始めるか…‼というところで、ここで学びを止めたら何もかも中途半端で終わってしまうような気がする。最終的な目標は、エネルギーと食糧という現代人の生活を支えてる根本の部分を科学的に理解した後は、生物多様性地球温暖化に配慮した生産・物流・消費システムをより一般的な意味での”科学”ベースで提案し、資本主義の精神によってひびの入った人間関係にテコ入れしたいという一連の流れをクリアして見せることで、ようやっと生涯心血注ぐだけの価値のあることを見つけ出せた気がしてたのに…。自分自身が編み出した理論的基盤など何もない状態で、ファストフード店の労働環境がどうだとか食糧・包装廃棄がどうだとか、栄養的にどうだとか、外国産の農薬染み染みのガバガバ検査の、過剰に土地を消耗させて作った肉がどうだとか、そういう”誰でも知ってるけど気負いすぎぬよう見てみぬふりをするのが当たり前な事柄”に、先人の前に倣って悪態つくだけでは、文句言いたがりの根なし野郎と思われかねない。

いやそれを恐れている時点で、「お前、それ権威の傘着るための学びじゃないのか?ー飾りじゃないのよ知性は」ってツッコミが入りそう。

本当に地球と全人類を思ってそれを成し遂げたいのならば、論理なんてかなぐり捨てて、チミはそのパッションだけを披露してみるだけでも目的に適っているはずだろう?事実グレタ・トゥンベリはそうしてる。彼女は革命家だ、扇動力がある。もちろんいい意味で。確かな理論基盤もなく人に話すのが恐いのは、突拍子もなく受け売りの言葉を並べ立てて、チミの言葉に説得力が宿らなかったらどうしよう…と考えているからだ。チミにとって重要なのは、問題の解決ではなく、むしろ解決に時間がかかること、良く言えば没頭できること、悪く言えばアイデンティティの置き所なんだね。それは日常生活によく現れてるだろう。心の余裕のある時には、安楽椅子に腰かけながら本やニュースで世の無責任さ、血迷い様に憤り、心の余裕のない時には、一時的な快楽を求めて暴飲暴食、娯楽コンテンツに走る。それはほんとうに臆病さだけに起因するものなんだろうか?制度的な用事が積み重なると気鬱になるのはほんとうに自分の生き抜く力を信じられなくなるからだけだろうか?エースを助けられなかったルフィが自暴自棄になったように、チミも”世界”という壁に阻まれて目の前が真っ暗になったとでもという気か?

いや、たしかに僕の資本主義に対する憤りは、ネットで伝播してきた、意地悪で、器の小さい、心の温かみの欠片もない思想に周りの人たちが感染して、それがあまりにも強力かつ毒性の強いものだったから、それに対抗するためにこの勉強を始めたはず。身に降りかかる災いを打ち払うため、そこだけは間違ってないはずだ。だがそれ以上は?生物多様性地球温暖化の直接的な原因になってる資本主義システムには、その無責任さに憤ったはず。逆に言えばそれだけで、自分の中に純粋な学問的な面白さっていうのは現状ないと思う。よく言えば先人の遺産(経済システムや科学技術)の圧倒的インパクトに酔いしれながらも、そのけつをふいてやるくらいの使命感でやってるはずだ。

やっぱり。

一人で他にすることも無いからやってるだけで、別に30年後の地球に対して危機感があるわけでもないし、かといって先人たちのように純粋な学問的魅力を感じてるわけでもない。”武器”として興味があるだけでその仕様書が分かりやすく書かれてなければすぐ投げうっちゃうような代物なんだろう、チミにとっては。お前の脳みそが”愛への渇望”でやられちまってるうちには実現なんて無理無理。

だけども勉強してるなかで素直に0から理論を汲み上げた先人に対する敬意みたいなものは感じていることだけは確かだ。信じてほしい。

目標を人に話せという部分に関しては、まず相手が資本主義に溶け切ってるやつだった場合、相手の価値観を覆すだけの弁舌を行うためには、やはり自分の中で論理が結びついていないとこちら側の”幻想”を相手の頭に挿げ替えるだけの力は備わらないでしょう。相手が資本主義システムに疑念を抱いてるようなやつだった場合は、たしかにびびって萎縮しちゃうよね。だから、僕が”武器”としてポスト資本主義を唱えてることを認めて、対人コミュニケーションは感情の発露であってゴマすりではないということを身体に覚え込ませて”愛”におもねるのを止め、とりあえずライフワークのような位置づけにしておけば妙に力まず、具体的な策についてラフに話し合える日が来るのではないでしょうか。どうやるんだそれ、って話だけどね。

このライフワークを”自然体”にするための最初の課題は、いかに身近なところに資本主義の精神が潜んでいるかを詳細に記述することからしか始まらないのではないだろうか。そのゲージが溜まるまでは身の回りのことでわちゃわちゃしたり、より愉快に生きるための方策なんかを捻出したりしてれば、いずれ毒抜きも終わるだろうと思う。

 

自分語り問答してたら紙幅がなくなって来ちゃった。

 

ずばり「有用な知」の収集ばかりに手慣れているとどうなるか。

頭で考えることが習慣化するのだ。

いわゆる理性のジャッジjudgeを頭に飼ってる人は見落としがちなのだが、実は大抵の人は逐一自分の言動を統一させようとはしていない。後から「言い過ぎたな、言葉選び間違えたな、あんなこと思ってもなかったのに」などと顧みることはあるが、面と向かい合えばすぐさま「理性」に主導権を握らせることを止め、”神経反射”に席を譲り渡す。だから会話の端々にボロが出るのであるし、また”光るもの”が出る。

私たちがスポーツや音楽に興じるのは、それが理性の支配から神経の支配に移り変わることで鬱憤を晴らしている面も多分にある。

理性偏重の人は、会話のボロが出るのを恐れるあまり言動を理性で縛るために、マリオネットのようにぎこちない。それ以上に致命的なのは、神経には絶対に主導権を明け渡さないためにパフォーマンスが著しく落ちてしまう点だ。

先程スポーツの例に例えたけれども、頭で「こうふりかぶって、この角度で、このくらいの勢いで…」と緻密にシミュレーションしてプレーするよりも、”いつものあの感じ”でプレーをした方が継続的にパフォーマンスの良い可能性は高い。変数がいくつもあり正確な未来が瞬時には導き出せないような時には、頭よりも感覚に身を委ねた方が勝率はあがるということは経験的に誰でも知っているはずだ。だが、ことコミュニケーションの話になると急に生得的な能力やこういう振りされたらこう返すとかどうのこうのという展開に議論が進む。

コミュ障と運動音痴は構造的に同じ問題である。頭でどういう練習をした方が良いか理解した後は、恥などかなぐり捨ててひたすら感覚に覚え込ます、これしか上達の道はない。ましてやコミュニケーションにおいては、本来その質などどうでもよく、憂さ晴らしに使う程度の心構えでいいはずなのだ。

コミュニケーション「嫌い」から常人になるためには、ボロなんか気にせずより露悪的に(他人から咎められるようなことでも)感情を表出し、その都度自分の器量の狭さを反省し、そうして最終的に咎められることなどなくなるまで、死に物狂いで、しゃべり倒し、自らの存在を主張するのだ。「箱入り自ら」だけにはならないようにしなければならない。あの集団だけでは好かれたい、あの集団だけには嫌われたくないなどの感情はたしかにあるが、その感情はそれを実現させるための”理性”を呼び覚ます。いやその感情を他人の眼から隠すために”理性”で偽装する。他人どもの目を抜いて最終的に勝者は俺だ、なんてやってると、蓋をしてる分まるで臭いものがあるかのように映ってしまう。そうではなくて、ご主人様にはしっぽフリフリさせながら、頬かむりしてみえるひとには間合いをとりながら、それでも自分の神経反射の清らかさ、卓抜さを信じて、そこに光明を見出すしかないのだ。

理想論だけどね。