「おやすみプンプン」草案

ホントは作者・浅野いにお(1980-)の少年時代、つまり1990年代の時代背景について調べ作品の中身と結び付けようと思ってたのだが、ちょっと今別件で忙しいので今週は草案のコピペで許してください。

 

・プンプン星を見つけた時、プンプンは大興奮で妄想を膨らます。

ノーベル賞もらったらー賞金でプンプン星に家を建てて、愛子ちゃんとイジュ―しよう‼ゲーム機も全機種そろえよう‼お母さんがダメって言ってた犬も飼おう‼お金が余ったらお父さん達の家も買ってあげよう。」

まず愛子との同棲、そしてそれを彩るゲーム、ペット、最後に親の順番が実に正確。最後だけ符号が‼でなくて。であるのも細かい。

そして十一巻でのこの対比

「なんて愚かな娘なのだろう‥」

 

・愛子はプンプン以外の人にはほとんど心を開かないし、幼少時代から「他の人なんてどーでもいい」と言っていることから、むしろ意識的に他人に関わるまいとしているのだろう。それはおそらく愛子にとって、自分が何もあげなくても好きと迫ってきてくれる唯一存在だけを渇望しているからだと思う。愛子にとってはそれが"神"なのだ。母親を説得するシーンで母親は「あんたは何をやってもできない」んだから私の下にずっといろ、「他人様に迷惑かけるくらいなら」と吐いたのを思い出してみれば、愛子は少なからずそれを内面化しているために自分から他人と関係を取り結ぶことは避けてきたのだろう。そこにプンプンが脈絡もなしに「一目ぼれで」いきなり「愛子ちゃんを守る」と言い放ったことに愛子は脳髄が痺れた。将来の夢を皆の前で発表することにおじけづいたプンプンに愛子が一言言いたくてプンプンに近づいて来た時点で多少なりともプンプンに意識は向かっていたのだろうとは思うが、それにしてもやはり最初はプンプンのストーカー始まりなのだ。ストーカーであったり夢を語ることに対して一言物申したくなったりと、小学生ならではの要素ばっかりなだけに"初恋の呪い"というのはそれほど恐ろしいし、また魅惑的でもある。おそらく中学生以降の愛子であれば自分の琴線に触れることがあってももはや口を出さなくなっていっただろうし、だからこそ成長するにつれて誰も構ってくれなくなり、ますます愛子は"重く"なっていくのだ。「プンプンはあたしのこと好き?」「じゃあ、あたしもプンプンが好き‼」この順番が愛子にとって一番重要なのである。ただ愛子の母親もおそらく口では愛子のためを想って束縛しているんだからねと幼少時代からそう諭していたはずである。がしかし変な宗教で基地外じみた母親に対する違和感は拭えない。だから愛子は口で愛を表現するだけではまだ安心できない。愛子が「プンプンは嘘つかないもんね?」と妙にこだわっているのも、愛情の賜物だと言い張る母親の根底から湧き出す暴力的な一面に懐疑的な気持ちから横溢してきた防衛機制としてごく自然な振る舞いなのである。だとしたら果たして物語後半のプンプンと愛子の微妙な関係性にも合点がいく。プンプンは”愛子のためを想って”愛子の母親を殴打した後絞殺するが、愛子にとって母親は憎しみの対象であると同時に寵愛を賜る対象でもあるがゆえに、人を殺してはいけないという倫理意識も当然相まって、はたしてプンプンのくれる愛は信用しても良いのだろうかと再び懐疑的になる。物語後半において愛子から見てプンプンは愛子の母親と同水準に並べられるのだ。そこでこのセリフである。「お母さんと同じこと言ってる。」物語後半プンプンの顔は真っ黒に塗りつぶされ鬼のような角も生やされていることからプンプンは憎しみに染まったというのは容易に読み取れるが、ここで愛子は独占的な愛は必ず憎しみとセットであることを悟ったのではないだろうか。これまでは唯一無条件で愛情をくれる母親に根本的ンそなわる憎悪から逃れるために、同じく無条件で愛情をくれるプンプンに固執していたが、独占的な愛、”初恋の呪い”に蝕まれたプンプンは憎しみにみちた愛情でもって応じた。もちろん最初に二人の間に憎しみをもたらしたのは愛子である。「嘘ついたら殺すから。」こう宣言して以後プンプンに呪いをかけたのは愛子の方だ。だが母親を介して憎しみとセットの愛のカタチしか学ばなかった愛子はこう表現するしかなかったものの、20年来呪いにかけられたプンプンほどには憎悪に対する恐怖感をコントロールできていなかった。「もっと本気だせよ、田中愛子。」プンプンと間に実現した愛もまた母親との愛と同じ様式であることを悟る。それは確かに愛子が一生涯求めてきたものである。だが同時に一生涯恨んできたものでもある。結局愛は苦しみのなかでしか与えらえないのだ、だとしたら愛が純粋な愛としてまだその片鱗を見せているうちに、苦しみが再び始まる前に生をやめてしまおう、そういう幸福感と絶望のなかで田中愛子は首を吊ったのである。おそらくね。

 この作品で定期的に出現する”神”とは自己存立基盤、ペロッと言ってしまえば、不安を和らげるための心のよりどころのことであることは間違いない。愛子の母親にとってはくちびるおばけ(もしかしたら愛子)、雄一おじさんであれば罪悪感、プンプンであれば自問、愛子であれば母親かつプンプンetc....通常であればもっとも健全な自己存立基盤といえば自問であることは、他登場人物の狂いようをみれば間違いないが、自問の持ち主プンプンもまた他登場人物と肩を並べる勢いで道を誤るのである。それは愛子の母親を殺すだけのことではない、いやあれはむしろ自己存立基盤のスペースを割と愛情に明け渡して以後の過ちである。蟹江に襲い掛かったり、プンプンママの訃報に全く動じなかったり、倫理をめぐる自問を延々発動させていたわりには結構クズなのである。というのもその自問発動に迫られたのが愛情不足始まりであるから。そもそもさっきから”初恋の呪い”と書いているが、プンプンの本当の初恋は一クラスメイトたるいじめっ子のミヨちゃんなのである。ここら辺リアルだなぁと感じ入ると同時に浅野さんの力量はここにあるんじゃないかとくらい思うのだが、とにかく、その後愛子ちゃんに熱が入るのはミヨちゃんが転校して傷心ぎみのプンプンがその穴を埋めるかのように一目ぼれしたからであって決して愛子の心暗い部分に惹かれたからではない。プンプンもまた愛子同様常に愛を渇望しているのだ。プンプンが最初に神様を呼び出すシーンは両親が酒がらみでいつもの大喧嘩を始めたところで1人部屋に戻った時である。最初の自問はこうだ。「お父さんとお母さんはもっと仲良くなれないのだろうか。」この問いからプンプンの倫理をめぐる問いへの一生涯かけての苦悩は展開している。両親は粗暴ながらも性生活に明け暮れておりかつ子供には虐待を重ねるような家庭で、果たして倫理的な子供が育つだろうか。暴力的な片親の下で幼少期を暮らした子供が倫理に目覚めるだろうか?自分対敵という構造に生まれながらに引きずり込まれた子どもは自分の身を守る術を知らない=構造の出方を知らない(生まれながらに仮想空間に閉じ込められた人間を仮定すればその人が目に見える世界がバーチャルなものであると気が付く可能性はどれほどあるだろうか)ために必ず相手のせん滅を願う。いかに相手を不快に陥れるかというゲームに参加させられた瞬間、互いに不快を与えずに済む方法を考えるリソースは大幅にけずられるのである。だから倫理は常に闘争に参加していない者、すなわち第三者にのみ優先的に開かれる。他人が刺されているのを見て、自分は刺されたという事実水準にはいないものの刺されたという共感的想像水準に身をおいたときにだけ、倫理の種は結実するのである。だとしたら倫理は暴力に満ちた世界の刷新を目指して始まる運動であるにもかかわらずその出生は暴力に頼っているという撞着に陥る。いかに先代が倫理インフラを社会に根付かせようとも闘争を俯瞰する機会を逸した次世代は必ず利己心に従って暴力を発揮するのだ。だから倫理と暴力は前と後、あるいは鶏と卵のように不可分であることは理解しつつも、恣意的な理由で核戦争を巻き起こすようなレベルにまで暴力を時間発展させないように暴力闘争の観客席に子供のうちから座らせておくことが必要なのではないだろうか。子供のうちから、というのは自己存立基盤にそれほどすがる必要がない、保護のもとに置かれている時代からということである。他人同士の闘いであろうと自己存立基盤の突き崩されそうになれば人は必ず頭の中でオーディエンスからバトラーに転向する。大人になってしまえば自己存立基盤はもろい自前のものしかなくなるため、殺す殺されるゲームから本人を解放してやるには新たな自己存立基盤を示して(あなたは僕が守りますから殺されることはありませんよ、とか)やりつつ、徐々に倫理をめぐる自問に移してやる必要があり、その分手間である。手間どころか重症なものだと一生涯かかるか死ぬまで治らない、だって人間だれしも皆違う世界に一歩踏み出すことさえ忌避する臆病者だから、僕も含めて。プンプンが両親の喧嘩を第三者として冷静に眺められたのも、他ならぬ両親は自分には手をださないという確信があったればこそのことである。自分が大丈夫だからこそ思いやりは発動するのである。これを逆手にとって、自分は大丈夫じゃないから倫理的に振る舞わなくてよいとかいう主張もそれなりの説得力をもって膾炙してますけど、あれはいきなり闘争に巻き込まれてその不快で相手に手をくだしたまたは将来手をくだしうるという罪悪感で、闘いのリングに上がり続けなければならないという物語自体を自己存立基盤におきかえ他人同士の闘争への悲しみから目を逸らしたいがためにそういう発言が生まれるのだ。ここから逆に言ってしまえば、赤の他人同士の闘争であっても長時間目の当たりにすれば倫理に目覚めない自分は自分で許せなくなるということだろう。だからここまでをまとめれば、倫理をめぐる自問の発動条件は①暴力闘争の俯瞰②それも長期間にわたって連続的に俯瞰③自己存立基盤あるいは保護があること、以上になる。

閑話休題

で、ここまでが脱線で、ここからが本題、すなわち倫理をめぐる自問はなぜなお社会人、隣人として不健全にとどまるのか、である。ひとつはさっき触れたように暴力の根絶を願う自問はその出自からして暴力を求めているからである。これは僕自身非常に身に覚えがある。大学入学後コロナウイルスの感染拡大の影響でキャンパスに通うことのなかった僕は、いわば暴力の跋扈する世界から急に解放されて、なんというか拍子抜けした。いやこの表現はあまり正しくない。あまり使いたくない表現だが、簡単にいってしまえば鬱になった。暴力根絶の物語を失った”倫理的な”人間の末路とは?自罰的な問答を延々繰り返し、そして自責の傷の癒しを求めて愛に嘆くのだ。

 

・プン山プンプンパパは野球観戦好きの中年。

プンプンの最初の夢は実はプロ野球選手。その理由は、「まだ野球をしたことはありませんが、野球中継を見ているお父さんはとても気分がいいから」子供の口で言わせるのがまたニヒルな感じがして良い。基本的に幼少時代のプンプンはお父さんに歯向かうということは全くなく、むしろ好いている、ように見える。仮説としてはプンプンの眼から見た家族関係図は、プンプンパパをなにかと怒らせ自分にもなにかと小言を言ううるさいプンプンママといったところだろうか。なにぶんプン山家三人暮らし時代の描写が少なすぎて確かなことは言えないのだが、後の巻で自分とプンパパの嫌なところを混ぜて煮詰めたようなプンプンが嫌いだとこぼしていたように、プンプンママはプンプンへの愛情と同じくらいの嫌悪感をどう処理してよいか分からず、割とぞんざいに扱っていたのではないだろうか。対してプンプンパパはプンプンに対しては割と甘い。愛情をナチュラルに伝えてくれる。