「おやすみプンプン」一巻①

おやすみプンプン」のメインヒロインは田中愛子ちゃんなのだが、実はプンプンの初恋の相手は愛子ちゃんではなく、小5の時のクラスのアイドルだったミヨちゃんなのだ。これからどういう物語が展開するのかまだ分からない最初の一めくりで出された情報なので、読み返すまですっかり忘れていた。ミヨちゃんは、いじめっ子として幅を利かせていたり顔面描写で酷い扱いを受けていたりするのだが特段重要な人物ではなくて、ホントに最初の冒頭二ページしか出てこない。が、ミヨちゃんの立ち位置は要するに記号であり、プンプンの性根を表すのに上手く機能していることには注目しておきたい。

プンプンがミヨちゃんのことを好きになったのは、吉川さん(モブ子)に砂利を食わせようとして虐めてるときに偶然プンプンが通りかかって、ミヨちゃんに「…二人だけの秘密だからね‼」と言われたのをプンプンが勝手に含みある言葉と受け取ったからであり、「後にも先にも喋ったのはこれきり」だった。そしてミヨちゃんの転校後、傷心気味のプンプンはその穴を埋めるかのようにすぐさま転入してきた愛子に一目ぼれしてしまうのだ。それは決して愛子の心暗い部分に惹かれたからではない。プンプンの軽佻浮薄さと言ったら‼

普通一回喋りかけられただけで人を好きになるだろうか?(しかも人に砂利食わせてるやつを…)一目見ただけで人を好きになるだろうか?プンプンの両親が不仲であったり母親に嫌われてると思いこんでることを鑑みると、やはりこれ特徴的な愛着障害でしょう。

愛着障害(あいちゃくしょうがい)は、「甘える」や「誰かを信頼する」などの経験値が極端に低いため、自分に向けられる愛情や好意に対しての応答が、怒りや無関心となってしまう状態[1]

  1. 生まれて2年目までに形成される通常の母子間の愛着形成;
  2. 通常の愛着が2-3年以内に形成されない場合には、愛着は遅れて形成される

欧米での先行研究により、子どもの基本的な情緒的欲求や身体的欲求の持続的無視や養育者が繰り返し変わる事などが挙げられている。また、研究者の友田(2020)[1]は、養育者との間の愛着形成を阻害する要因として、

  1. 暴言虐待による「聴覚野の肥大」
  2. 性的虐待や両親のDV目撃による「視覚野の萎縮」
  3. 厳格な体罰による「前頭前野の萎縮」

を挙げている。

Wikipediaでちゃんと調べたら愛着障害ってもっと重度で日常生活も満足に送れないほど支障をきたしている場合にしか適用しないらしい…。でもまぁ便利な用語なので勝手に敷衍して使わせてもらう。ここで言う愛着障害というのは、冷静な向き合い方のできていないままに一時的な快をもたらしうるという理由だけで相手につかず離れずで擦り寄る様という意味だ。

かいつまんで言ってしまえば、愛に飢えている、だれでもいいから愛をくだされという状態である。ただしそれは非常に即効的かつ一時的な快を欲求しての振る舞いなので、顔面が可愛いとか自分を気にかけてくれるとか褒めてくれるとか欲情的な身体つきだとかとにかく刹那的な快楽衝動によってのみ突き動かされるものだ。平均的な現代人なら誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。普通の人であればその欲求に従って相手に働きかければ最終的なゴールとまではいかなくてもそれなりの幸福感に満たされたやりとりくらいには発展させられるのだろうが、いわゆる愛着障害を抱える人がそれとは異なる点は、愛の応答に不得手、愛に臆病になっている(おそらくそれは愛情的に癒着した親であったり身の回りの大人であったりに煙たがられたあるいは懲罰的に扱われたというような歪な原体験が原因にあるのではないかとにらんでいるが)ために自分から相手に働きかけるということは絶対にしないということ。

といっても最低限の文化的かつ健康的な生活を送れているという点ではWikipediaの定義通りの愛着障害ほどの悲惨さを背負っているわけでないからプンプンみたいなストーカー行為はざらにします。そしてそれがよりいっそうキモイところである(プンプンがあの白アリクイみたいなデフォルメで描かれてなかったらよりいっそうグロテスクかつリアルな仕上がりに出来たはずで若干不満がないわけでもないが、しかし表情をグロテスクに仕上げようと作者が力みすぎてそれはそれでイタい感じになってたかもしれないことを考えると評価したい気持ちもある)。凡人に紛れ込もうと必死になりながらもグロテスクな手段でしか欲望を表せないその微妙さ加減がよりいっそう人々の鼻につくことは賛同していただけるだろうこと請け合いだ。人々は真面目なら真面目、熱い男なら熱い男、残虐非道な奴なら残虐非道な奴、異常な奴なら異常な奴として認識する方が理解しやすいのであり、また自分自身もどれかに振り切っちゃった方が楽なのだ。そういう迷える子羊をプンプンとして主人公に据えたということは、日常生活を五体満足で遅れているけど苦悩の渦中…という人の浄化にこそ「おやすみプンプン」の薬理作用はあるというわけだ。

 

…そして田中愛子が五年二組に加わるわけだが、このヒロイン普通に可愛いのである。大衆芸術と言われるジャンルで勝負するには致し方ないのか?とも思うが、プンプンのような陰気な奴が陰気たるゆえんはその欲望の発散の仕方が歪なところにあるわけでそれがお顔の可愛い愛子ちゃんによって満たされちゃったらそれこそただの陰気なやつの欲望の発散の仕方のひとつである夢物語を見せられてるだけということになるのではないのか、それじゃこの物語に確かな道しるべを求めることなどできないではないか、と不満が噴出してくるのではあるが、おそらく田中愛子が不細工に描かれていたとしたら僕ら読者は原作ほどこの物語に憑りつかれることはなかっただろうし、よりリアルに近い性愛も描き出せなかっただろうし、浅野いにおの丁寧な描写から可愛いという一点だけでプンプンが狂わされているわけではないというのは分かるのだけれど、それにしたって………プンプンもジャニーズ顔のイケメンらしいし…美男美女でイチャコラして密な関係築いて、、、え、なんかシュールレアリスムの技法かギャグか知らないけど、モブメンをやたらぶっさいくに描いてるのも腹立ってきた。まぁ作品は作者の思いのたけを結晶化する場ですから読者の欲望なんて介入の余地ないわけですから別に良いですけど。実際、ラブコメと文学のこの絶妙な混ざり具合がマンガというプラットフォームの下で一つの成果をあげていることは確かだし、伊坂幸太郎がこの作品を「前衛でありつつ王道を走り抜ける」と評しているのもこのところなんじゃないだろうか。今後も折に触れて指摘していきたい。

 ちなみに先程触れたシュールレアリスムはここでは俗語的な意味で、物語の各所に異物あるいはナンセンス、不条理なものを紛れ込ませることくらいに捉えてほしい。例えば一巻におけるシュールポイントを拾ってみると

・プンプンとその家族は全て落書きのヒヨコのような見た目

・口が大きく斜視気味のミヨちゃん

・死んだ目をした同級生(女)

・下敷きと髪の毛で静電気実験をしてる同級生(男)

・舌をぺろぺろしながら走る腕ポーズをしてみたり、首を左右に揺らしてみたりと爽やかな笑顔を張り付けたまま不審な挙動を繰り返す五年二組の担任

・身の丈にあった夢を持てとか宿題してこなかったら死あるのみとか先生らしからぬ発言を繰り返す五年二組担任

・コスモさん健康センターという宗教団体のメンバーらが笑顔のまま指を結んで前で両手をクロスしセイッ、セイッと唱える描写(実は伏線だったと後で判明)

・ぷんぷんは「神様神様チンクルホイ」と唱えると神様が召喚できるのだが、見た目は普通の中年のおっさん、必ず二次元的に平面で描かれる

・アンゴルモア

wikipediaによればノストラダムスの大予言の中に登場する恐るべき大王とのこと。

この語は、『予言集』(百詩篇)の第10巻72番に登場する。その詩の直訳はひとまず以下のようになる(翻訳上のより詳しい問題は第10巻72番を参照)。

1999年7か月、
空から恐怖の大王が来るだろう、
アンゴルモアの大王を蘇らせ、
マルスの前後に首尾よく支配するために。

 ・プンプンが作文の宿題をやってきてないと早とちりした五年二組の担任が涙を垂らしながら発狂。机に頭を打ち付けたり黒板にチョークで意味の無い線を描いたり頭を抱えて床に背をつけてじたばたしたり、とにかくやばいことをしながら説教したり平等についてそれらしいことを考えてみたりやはり発狂したりした。実はプンプンが作文の宿題をちゃんとやってきていることを晴見(プンプンの友達)が告げると、「なーんちゃって‼」と舌をぺろぺろしながら走る腕のポーズをしておどけてみせる様子が教室全体を映す引きのアングルで収められていた。

・教頭先生と校長先生が叫んだり変顔したりしながらかくれんぼに興じる様子

・プンプン椅子の上に立ったり教卓の上に立ったりしている

動線上に効果音(ひたひた、シュイ―ンetc..)が配置されて描写されている

・プンプンの頭の中でビックバンから地球創世、大地形成、動植物の発生、宗教文化を表す土偶(?)、壁画、アインシュタイン、絞殺による大量殺処分、宇宙到達、町の鳥瞰(その後愛子に初めて告白することから、愛の普遍性、スケールのでかさ、運命論などを印象付けたかったのではないかと推論も可能か)

ヘッドロックかますぞと冗談ぶく音楽の先生、ピアノ演奏中の必死の形相

・ラーメン店主が死にかける超ショートサイドストーリー

・雄一おじさん(プンプンの母親の弟)が物思いにふけりながら独り言つ最中、なぞのやつれた女が共感してくれる

・プンプンのアイスの棒にあたりではなく”あたた”の文字

・体育で同級生に紛れてランニングする神様

・卑猥なひっかけクイズを出してくる保健室の先生

・「ウイッ‼ウイッ‼」しか喋らない弁護士の湯上くん

・「わからないったらわからない」ダンス

・愛子を追いかけるシーンで腹ぼりぼり掻いてるおっさん

・無罪を主張して裁判がどうのこうの言ってるアフロ外国人、なぜか愛子ちゃんとプンプンが鹿児島に行く約束を交わすところまでついてくる

・清水にだけ見える落書きのような神様たち(うんこ神etc...)

・寝てるじじいのはげ頭にアブラゼミがとまる

シュールレアリスム的絵画的描写も頻出していたが、言葉じゃ充分に伝えられないため省いた。やはりプンプンのもやもやで混沌とした心情を表すのに使われることが多かったように思う。

 

今週はここで終わりにしようかな。

あと一つ言いたいことは、さっきのような他人が拵えた要素や具体例の羅列を逐一眺めてふむふむと唸ることほどばからしいことはないと思う。基本的に羅列というのは読者のためなどでは全くなく、むしろ作品を繰り返しスキャンして要素を一つ一つ丹念に拾い上げる営みこそが当人の頭の中の整理と分析への足掛かりの確立につながるのであって、それを面倒くさがってまとめてくださってアザース!とか言いながら労力削減を図ろうとすればあっという間に頭から抜けていくでしょう。なぜならそれはその人にとってまだ疑い深いものに留まるから。地道に時間をかけて丁寧に自分の思考規範に照らしながら積み上げていくことで初めて、その人にとっての”確からしさの核”が形成されるのだ。これはすべてのことに言えると思っていて、こういう作業を億劫がって他人に情報の適否の判断を丸投げしてるようなやつらが陰謀論とか扇動とかにひっかかってるんだと思う。陰謀論wとしか嘲笑することの出来ないやつも、そうやって非難すれば立場上理性的に振る舞えると浅知恵を働かして他人がやってるのを猿真似したに過ぎず、自分にとって疑いようのない事実を積み上げていく作業を放棄しているという点では、陰謀論者とさして変わらないとも思う。

 

蛇足ですが。