『人間失格』太宰治

最近ゆっくり科学解説にはまってます。そういえば今年はバレンタインデーが日曜日でしたね。アベックどもが休日にバレンタインチョコを通じて甘いデートを楽しんでると思うと情けなくなりますが、バレンタインは校則と衆人環視のなかでなんとか二人だけの濃密な空間を作り出すのが醍醐味だったはずなので、そういう意味では可哀想かなとか思ったり。どうでもいいか。そこで主人公がリア充な「人間失格」の感想を書きます。

 

「この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸惑いしている」描写が非常にわかりすい。この手の悩みは一定の層に対してはもはや知れ渡りすぎた、ありふれた悩みごとであるがゆえに物語に組み込むには勇気がいる。読者も飽き飽きしているのだ。かといって有効な解決策が見つかった例は寡聞にして知らない。恐らく真に根深い問題は結局自分一人の手で背負うほかなく、そこから先は二つに一つ、重責感に押しつぶされそうな私の肩に愛の掌が置かれるのをただただ待つか、物語に組み込んで象徴界の力動的プロセスに身をゆだねるかのどちらかだ。その二つは互いに独立して行われるべき、だろう。愛を求めて物語をこさえようなんて腹積もりでは、太宰治の二番煎じと言われても仕方ない。二番煎じでない、コバンザメではない、という意味において、よいお手本となる描写なので抜粋する。もっとも現代のほとんどの読者が見飽きているのは事実だし、共感できない人にとってはただの根性なしの愚痴ったれにしか見えないだろうが。

 

自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋の絨毯が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそりと立って、皿の空くのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎこちない自分の手つき、自分は買い物をして金を手渡すときには、吝嗇ゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真っ暗になり、ほとんど半狂乱の気持ちになってしまって、値切るどころか、お釣りの受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れたことさえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。”

 

 

もちろん脚色もなされていると思うが、本人への切迫感としてはこれくらいのものである。小説は他者への共感の場でもあると思うのだが、切迫感を伝えるための描写が脚色に過ぎないと評されるおそれは常にあるわけで、そこの塩梅が小説家としての腕前に直結するのである。すなわち、この作品を読むにあたっての問題意識は二つ。ともすれば軟弱、へっぴり腰の与太郎と吐き捨てられるに留まるやもしれん、パーソナルな悩みごとを文学作品へと昇華するにはどうすれば良いのか、そこのところの太宰の技量はどこに認められるか。それから弩もりの毒に犯された主人公に救いの道はあるのか、描かれるのか、である。

 

まず堀木について気になる。葉蔵は彼を「自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸惑いしている点に於いてだけは、たしかに同類」と表現している。さらに、「そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。」と指摘している。世渡りのなめらかでない人々の一定数(陰キャよりも陽キャの補集合といった方がイメージが正確になると思うが)のあいだでも、都合よく分けて、すさまじい意識家とよるべない自信家がいると思う。例えば有吉とビートたけし、とか。(もっとも二人ともすっかり熟れ切っているのでこの対比ではくくれないが、それぞれの出身としては各々当てはまるだろう。)すさまじい意識家はいわば「この世の人間の営み」の中にあってこびへつらい、恐れおののくものの、内心愛憎が渦巻いているのに対し、よるべない自信家は「この世の人間の営み」の外にあって憎まれ口を叩くものの、はた目には平気な面をしているように見える。だとすれば、この後葉蔵が堀木を「軽蔑」で以て迎えたのは納得がいくだろう。というのも、経験として、すさまじい意識家は、よるべない自信家のパワフルな行動力に対する憧れから、転じて忌み嫌う傾向があるからだ。”どうしてああも威張り散らすことのできるがだろう、お前の行動の正当性はまるでないというのに”と。穿ってみるならそれは防衛反応である。

この本質的に相いれない葉蔵と堀木はどのように交わっていくのだろうか。堀木は葉蔵を道楽へと誘い、その影響は意外とすぐに表れる。

はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修業をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修業は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添ってくる、そのような、卑猥で不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのである。

 

 竹なんとか君の「君は女に惚れられるよ」という予言がここで効いてくる。

思うに、葉蔵はホームシック的欲求の沼にからめとられていた。もう一度あの感覚を味わいたいという指令にのみ突き動かされ、まだ経験したことのない悦び、まだ先の見えない望見ということはおっくうで嫌がる状態。一番私たちに身近なのが恋、そして酒、煙草、セックス、クスリ。これらは手っ取り早く、十分な、身に覚えのある満足が得られるという意味においてまったくの同列である。こういう類は、物事を極端にする。それを味わっている時間は幸福、それが手元にない時間は幸福の欠如という形で私たちの生活を分極化する。その存在を知らなかった過去というのが想起できなくなり、欲しがりになる。そこから抜け出すためにはそれらを断ち、反復する欲求に応じることなく、それらの存在が意識にのぼらない状態にまで耐え忍ばなければならない。が、最も厄介なのは愛である。というのも、羊水にぬるく包まれていた赤ん坊が産道からこの世に出る際に、その不快のために泣きじゃくるのに寄り添って母親が保護を与え、その愛に依って新しい世界に居場所を見つけたように、愛に対する依存を断ち切るには愛で以てしかありえないという円環構造に私たちはなす術がないからである。それは時期を待つしかない。欠乏感からくる愛は、かつて親に与えて親の倫理で以て断ち切られた原初的愛の映写でしかない。それは二次的な愛である。その根源的な愛の始まりは、まず親に出会いそこから愛が産まれるという順序であったはずだ。ホームシック的欲求によって誰かれ構わず撒かれた愛は根源的な愛ではなく、俗的な言い方を借りれば、恋なのである。

とここまで書いてそういえば太宰治愛着障害だったなと思いだして合点がいった。

自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっする眠る事が出来ました。(中略)何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。

 

 欠乏感、寂しさから生じる愛を葉蔵、淫売婦、互いに投げかけ合い、そこに葉蔵はマリヤ、つまり母親の現像を見ているのである。しかし、ホームレス的欲求に縛られることは、ダメなのだろうか。非常におぼろげで申し訳ないが、昔読んだ記事かなんかの記憶によれば、太宰は、立派に身を立てて有徳の人となるのがそんなに偉いのか、そう反発していた印象がある。たしかこの後酒に溺れて葉蔵は身を滅ぼしていったはずで、太宰自身も人間失格を書いた直後に自殺してしまうが、それは欲求の円環構造から抜け出せない自分を恥じてのことだったのではないだろうか、といきなり巻きにかかりそうな感じになったが、もうすこし読み進めていって、欲求の円環構造に対する太宰のアンサーを汲みだし、この感想文の最後にもう一度触れることにしましょう。

 (続く)